日本人少年少女の奴隷化を止めようとした豊臣秀吉の大功績

日本人少年少女の奴隷化を止めようとした豊臣秀吉の大功績

歴史上、奴隷貿易の被害国の「権力者」のなかで、最初に、奴隷売買を断ち切るため
立ち上がった人物は誰だろうか??…という問いが気になります。

(※秀吉清正記念館蔵「豊臣秀吉像」より/サイト「週末ウォーキング」様からの引用)

!! 今回もまたぞろ「余談の余談」を申し上げてみたいのですが、まずは、世界の奴隷貿易の歴史における “最大のタブー” と言われるものをご存知でしょうか?

それは大航海時代の真っ只中に、西アフリカ諸国の国王たちは、奴隷商人や武器商人と結託しながら、なんと自ら奴隷を積極的に売りさばいて国家財政の柱にしていた、という現実です。

そうした行為は例えば、自国民を奴隷として輸出したコンゴ王国(14世紀末~1914年)やンドンゴ王国、他国に侵入して奴隷狩りを行なったダホメ王国(1600年頃~1894年)・アクワム王国・アシャンティ王国、その両方を行なったベニン王国(12世紀~1894年)など色々なケースがあったようですが、どの王国も結局は奴隷貿易がアダとなって衰退し、そのまま列強の植民地に成り下がって行きました。

したがって我々日本人がちょっと誤解しがちなのは、植民地にされたから奴隷を出すことになった、という関係性ではなかった(!!)ということでありまして、やや無責任な言い方で言うなら、大航海時代にアフリカでは奴隷が「売り」に出ていたから、目ざとい欧米人がそれを買って三角貿易に利用しただけ、という言い方をする欧米側の詭弁(きべん)もあって、これは現在のアフリカ諸国としては、断じて認めたくはない歴史の「汚点」でしょう。

【ご参考】奴隷狩りで最盛期を築いたダホメ王国の第9代国王 ゲゾ Ghezo
彼は1852年に奴隷貿易を終了すると宣言したものの、実行できなかった。…

ダホメ王国は国王警護の女性軍「アマゾン」Dahomey_Amazonsでも知られた強国だったが。

 
――― では転じて、我が国はどうか?と申しますと、一度たりとも欧米列強の植民地になったことは無いものの、最近、つとに話題にあがるのが、16世紀半ばから17世紀初頭の約50年間に、「日本人奴隷」がアジア・ヨーロッパ・南米と世界各地に売られて行き、その合計が膨大な数(一説に50万人以上とも)にのぼっていたのではないか、という一件です。

【ご参考】…日本人奴隷は少年少女……

ゴア市民(ポルトガル人)の国王宛て陳情書より
「最近にもオランダ人との戦に於て見られたる如く包囲戦または戦況窮迫なるときポルトガル人の一住人この(奴隷の)若者七・八人を率ゐ鉄砲と槍とを以て現るるなり」

宣教師ディエゴ・デ・コウトによる、ポルトガル商船の座礁事件の際の書簡より
「商人等が神を怖るることなくして、色白く美しき捕はれの少女等を伴ひ、多年その妻の如くに船室に容れ妻として同棲したる破廉恥なる所業を、神も罰せんとはなされしならん」

在日本イエズス会が発した奴隷貿易者破門令議決書より
「… 奴隷の航海中に死する者少なからず。その故は蓋(けだ)し奴隷は航海中積み重ねられ、その買主――そは屢々(しばしば)ポルトガル人の下僕たる黒人なることあり――病死するときは世話せらるることなく…」
(※いずれも出典は岡本良知著『十六世紀 日欧交通史の研究』から)

(※ちなみに現在、日本語版ウィキペディアで「奴隷貿易」を検索すると「日本人奴隷」の項目がある程度の分量で出てまいりますが、ポルトガル語版ウィキペディアでは、奴隷貿易 Comércio de escravos が英語版用の「大西洋奴隷貿易」に内容が巧妙にすり替わる形で、一行たりとも、日本人奴隷には触れておりません!) Sr. Cristiano Ronaldo dos Santos Aveiro, se você ver isso, por favor, faça de alguma forma.

ご覧の表紙の『大航海時代の日本人奴隷』は昨年の刊行、『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』は2013年の刊行ですが、それぞれに驚きの内容が載っているものの、後者の本で数多く引用されているのは、なんと戦前の、昭和11年初版の名著・岡本良知『十六世紀 日欧交通史の研究』の第四章「日本人奴隷輸出問題」だったので、二重に驚いてしまいました。

そこでご覧の本を中心に読み込んで解ったのは、日本人奴隷の問題全体の大きな構図として、そもそも1452年、ローマ教皇がポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷とする許可を与えたのが根底にあり、しかし問題の表面化で、1570年にポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁ずる勅令を発したものの、それに対して、遠くアジアのゴア、マラッカ、マカオ等にいたポルトガル人は全く聞き入れず、むしろ公然と反対する陳情書(=我々は対価を支払ったし、奴隷のキリスト教化も進むのだからいいだろ、といった調子)を本国宛てに送りつける有り様だったこと。

そんな状況のなか、豊臣秀吉が事態を察知して大きな怒りを示すと、少なからず日本人奴隷の件に関与していた在日本イエズス会はあわて出し、コエリョは冒頭の黒人奴隷と同じ論理(=売ったアフリカ側が悪い)で抗弁し、ヴァリニャ-ノはイエズス会の責任回避のために天正遣欧少年使節の捏造(ねつぞう)?対話集(『天正遣欧使節記』)を作らせ、ついには違反者に破門状(後述…決定的な資料です)まで出したものの、日本人奴隷の流出はとうとう徳川幕府の鎖国令まで止まらなかった… という構図だったようです。

したがって今回のブログ記事は、上記の『十六世紀 日欧交通史の研究』(=以下では岡本著書と表記)に盛り込まれた驚きの資料の数々から、私がインスパイアされた疑問を(→特に、本当に「売った日本側が悪いのか」について)申し上げ、そんな立場から、豊臣秀吉が挑んだ人類史上 空前絶後の「快挙」に着目してみたいと思うのです。

 
 
<<奴隷発生の「原因」として伝聞された内容をめぐる、大きな矛盾。>>
 
 
(大村由己『九州御動座記』より)

宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおよばす、豪族の徒輩までが、己の下婢や郎党はおろか、自分の妻まで南蛮船で運ぶ。それは獣のごとく縛って船内に押しこむゆえ、泣き叫び、喚(わめ)くさま地獄のごとし。

ご覧の描写は、秀吉の九州攻めに同行した大村由己が、長崎などの九州の港に入った南蛮船に押し込まれる日本人奴隷の悲惨さを伝えたものですが、これら日本人奴隷が発生した元々の「原因」については、前時代と同様に、領主の課税がひどくて農民が子を売ったとか、戦場で略奪(乱取り)された者だろうという話が、ごく当たり前のように推測されて来ました。(岡本著書でも各説を併記)

しかし岡本著書の驚きの資料のなかで、私がいちばん驚愕(きょうがく)したのは、後述のごとく、在日本イエズス会が発布した公式の文書(=奴隷貿易者破門令議決書)において、日本人奴隷は「少年少女」であり、原因は「ポルトガル人」自身による計画的な「誘拐」だった!!!―― と明記してある点なのです。

そして日本人奴隷はなぜか “ただ同然” の安さだったという話も、イエズス会が本国に送った書簡にあって(「殆んど無代に等しき代償を支払ひて毎年輸出を致しをれる所…」岡本著書P747より)、この安さの話は天正遣欧使節なども語っていて、岡本先生は「外国人に転売される場合でも 一人につき二、三文より高くても それとは甚だしく懸隔する値であったとは見なし難い」(同書P764)と述べておられます。

しかし「二、三文」と言えば、現代の貨幣価値では100円以下!…でしょうから、そんな「安さ」がどうやって実現できたのか? という当然の疑問がわきます。

それに関連して岡本著書では、イエズス会が「その労務年限の問題は」という言い方をしていたこと(同書P746)がわかり、いくら激安でも、一応の「契約」は交わされていたらしく、ならばそれは、どんな契約だったのか… と、ふと、私はトリハダが立つような想像をしてしまいました。(→詐欺・だましの証文で子供を連れ去った? 子供だから「二、三文」か)

そしてこの問題のいちばん重要なポイントと思われるのは、かのフロイス『日本史』においては「この忌むべき行為の濫用は、ここ下(シモ)の九ヵ国においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである」(第二部九七章)とあることで、つまり日本人奴隷の輸出は「九州」でしか行なわれていなかったらしく、「九州」と言えば、やはりキリスト教との関連が想像される地域です。

で、そんな状況を一変させたのが、まさに豊臣秀吉の九州攻め(→秀吉が遠征先で長崎などの奴隷輸出を知ったこと)だと言えそうなのです。
 
 
ではここで、私が感じた基本的な疑問を、改めて列挙しますと…

【疑問1】
日本各地の領主(徴税者)の立場で考えれば、奴隷は、出来るだけ「高い」値段で他国に売れた方が良かったはずなのに、「日本人奴隷」の場合は、どうしてそうならなかったのか。

【疑問2】
また戦場での略奪(乱取り)の場合、侍が敵国で捕らえた奴隷が、いくら転売しても当時の通常価格の十分の一から千分の一の!!「二、三文」にしかならなかったとすれば、よほど戦場の近くで「奴隷商」か何者かがまとめて引き取ってくれないと、そんなに安い奴隷の売買は絶対に成り立たなかったはず。

【疑問3】
それにしても「酷税」や「戦乱」は当時、日本各地で頻発していたはずなのに、フロイスが日本人奴隷の輸出は「九州」でしか行なわれなかった、と伝えているのは明らかな矛盾であり、これを逆に邪推するなら、「九州」は最もキリスト教が広まった地域でもあるため、やはり「原因」の根幹に、ポルトガル人やイエズス会が深く関与していたのではないか。
 
 
 
<<悪い想像。いわゆる「年季奉公」のつもりでいた「少年少女」を、
  ただ同然の「安い」手付金で証文を取って「奴隷」として連れ去ったのなら、
  そんな悪辣な犯行の「告発者」=豊臣秀吉の功績を、なぜ言わないのか>>

 
 
 
天正15年(1587年)、奴隷輸出の件を聞いて激怒した秀吉は、イエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに詰問を行ないましたが、フロイス『日本史』によれば、その詰問状には以下の内容が含まれていました。

「汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。
 もしそれが遠隔の地ゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう」(第二部九七章)

!…… これは、自身がかつて下賎の身分であった「秀吉」という人物の、面目躍如(めんもくやくじょ)たる詰問であり、すでに独裁者としての地位を固めていたとは言え、この場面だけは、秀吉の「地」が出てしまった部分だと感じられてなりません。

聞くところによれば、いわゆる「年季奉公」という慣習は、「下人」という形で室町時代からすでに普及していたそうで、その日本の慣習がポルトガル人によって、キリスト教の「教化を施(ほどこ)す」という名目で “悪用された疑い” もあるのではないでしょうか?

しかも興味深いのは、現代の国際社会においても「年季奉公」というのは「奴隷の一種」と見なされる危険があるのだそうで(!!)、ちょっと驚いてしまうものの、そんな国際感覚のズレに、当時の日本人も(無自覚に)つけ込まれたのかもしれない… などと思えば、秀吉という人の「直感的な」怒りに、どれだけ日本人は救われたかと感じざるをえません。
 
 
そこであえて申しますが、秀吉が1587年に発した奴隷「売買」禁止令は、被害国の権力者として世界初の事例かもしれませんし、それどころか古今東西の歴史でも空前絶後の快挙(→被害国の反撃として唯一の正式な法令)であった、ということはないのでしょうか?

何故なら、冒頭で紹介したダホメ王国のゲゾや、コンゴ王国のアフォンソ1世(在位1506-1545)の禁止宣言というのは、彼ら自身が、どっぷりと奴隷売買に手を染めた張本人だったわけで、それらと秀吉の果断な行動との違いは、歴然としているからです。

実際には江戸時代に幕府が鎖国体制を固めるまで、この問題を完全に断ち切ることは出来なかったようですが、しかし、だからと言って、秀吉の「大功績」を “あえて言わない” ような空気が、いまも日本社会にただよい続けていることは、まったくもって解せません。!
 
(※ここまでご覧いただいた中でも、アフリカでの奴隷発生の原因→国王による積極的売買と、日本人奴隷の原因→ポルトガル人による計画的誘拐とは、まったく種類が異なる事件だと分かりますし、とても「売った日本側が悪い」などとは言えない実態が、次の最後の記事でご理解いただけます)
(※念のため付け加えますと、朝鮮出兵の際に出た朝鮮人奴隷は、それまで日本国内で戦国時代から頻発してきた「乱取り」=戦場での略奪行為そのものであり、国際的な「奴隷貿易」とは別次元の話であることは言うまでもありません)
(※ちなみに、奴隷を買った側の全面的な「禁止令」としては、18世紀に西インド諸島で奴隷貿易をしていたイギリスが、現地での暴動や独立運動の果てに、1807年にイギリス議会で可決した禁止令が世界初だとされています)

 

 
 
<<犯行の実態を告白した決定的な公式文書「奴隷貿易者破門令議決書」>>
 
 

さて、以上のごとく、岡本著書には驚くべき資料がいくつも載っておりますが、何より決定的なのは、秀吉の怒りに触れたイエズス会が、やっと9年後の1596年に「奴隷貿易者破門令議決書」なるものを発布して、日本人奴隷に限っての、問題解決への姿勢を示したのですが、司教の交代で二年後に再び発した議決書(※一回目の議決書は現存せず)にはこんな文面があるそうです。

その始めに於ては久しき年月に経験せられし如く、少年少女を購ひて日本国外に輸出するに際し、(耶蘇会は)彼等のためにその労務の契約に署名し、または彼等のうちの或る者に署名せしめて認可を与えたりと雖(いえど)も…
(岡本著書P738の訳文より)

と、自らの「関与」の仕掛けを白状したうえで、いっそう犯行の実態をうかがわせる一文もあって…

日本の異教諸国に於て少年少女(奴隷)を募集せんためにポルトガル人の廣く散在し、異教人自らそれに甚(はなは)だ無自覚なるが如くに生活する処(ところ)に至りて犯すその不品行をこゝには挙ぐるを敢てせざるべし。
(岡本著書P770の訳文より)

――― つまり、少年少女をだまして誘拐する専属の(!…)ポルトガル人が、九州一帯に広く散って暗躍していたのに、現地の住民らはまったく「無自覚」(年季奉公の「募集」の落とし穴に対して)だったので、犯行や「不品行」が簡単に行なえたのだと指摘していて、イエズス会としては…

若し(日本人にして)かくの如く多数の同胞の毎年 外国人の奴隷となるために誘拐せらるるも(我等が)あえて寛恕(かんじょ=ゆるす)するを見んには、基督教徒は勿論 異教徒たる日本人も、我が聖福音の奉務者(の心事)を憎悪するに至るは蓋(けだ)し当然ならん。
太閤様も一度ならずその事実を憤懣(ふんまん=いきどおり もだえる)せしなり。

(岡本著書P738の訳文より)

という風に、秀吉の度重なる怒りが、破門状の具体的なきっかけであった経緯を述べていて、さらにこんな警告文も付け加えました。

媽港の統治者は、約定に依りて支那(媽港)のカピタン・ジェラルたるヌーノ・デ・メンドンサに対し厳重なる罰を以て(日本人の)少年少女の船載を許諾せざるべきを強制するに怠(おこた)りあらざりき。
(岡本著書P741の訳文より)

「媽港」とはマカオのことですから、在日本イエズス会はこの議決書の中で、マカオにいたカピタン・ジェラル(商船隊司令官)の「ヌーノ・デ・メンドンサ」なる人物こそ、日本人奴隷の問題の中核にいた巨魁(きょかい)だということを、はからずも白状していたのです。
 
 

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