ポルトガル人による組織的な大量「誘拐」事件だった、となると…

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【追記】日本海海戦で我が国の命運を救った日本海軍 / 各艦の艦尾には「軍艦旗」があった

「軍艦旗」は日の丸の位置を艦の旗竿側に寄せている

ご承知のとおり、明治38年(1905年)、日露戦争の勝敗の岐路になった「日本海海戦」が対馬沖で行なわれ、大国ロシアのバルチック艦隊に日本海軍が圧勝したわけですが、当時の李氏朝鮮(大韓帝国)の国民は “目の前で” その一部始終を見せつけられました。

しかし今や、そういう「日本海の歴史」を忘れている、いや、意図的に書き換えたがっている韓国の(儒教由来の)独善的な政治手法には、常に注意していなければならないようです。

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さて、同じ「海」の話題ですが、前回の記事から引き続きまして…
 
 
ポルトガル人による組織的な大量「誘拐」事件だった、となると…

(大村由己『九州御動座記』より)

日本仁(人)を数百、男女によらず、黒船へ買取、手足に鉄の鎖りを付け、舟底に追入れ、地獄の苛苦にもすぐれ、…

この大村由己の描写は、なんとアフリカの黒人奴隷の「奴隷船」とも合致。

ためしに、ちょっと数えてみて下さい。「数百」にはまだ足りません。したがって――

!…… 前回に詳しく申し上げたように、こんな責め苦が日本人の「少年少女」にも加えられたのだとしますと、彼らが船内で泣き叫ぶ声を想像すれば、「日本人奴隷」問題はとても “余談の余談” では済まないことになりそうです。

しかも、この問題はひょっとすると、またもや列強や戦勝国の「嘘(うそ)」で塗り固めた歴史である可能性がふんぷんと臭(にお)って来るため、次回は必ず「天守」の話題にもどることをお約束しつつ、今回だけ、この件に関する補足をさせていただきたく存じます。
 
 
(岡本良知『十六世紀 日欧交通史の研究』P770の「奴隷貿易者破門令議決書」より)

日本の異教諸国に於て少年少女(奴隷)を募集せんためにポルトガル人の廣く散在し、異教人自らそれに甚(はなは)だ無自覚なるが如くに生活する処(ところ)に至りて犯すその不品行を こゝには挙ぐるを敢てせざるべし。
 
 
ご覧の在日本イエズス会の公式文書(1598年)のとおりに、問題の実態は、少年少女をだまして誘拐する専属のポルトガル人が、九州一帯に広く散って暗躍していたのに、現地の住民らがまるで「無自覚」(→年季奉公の「募集」の落とし穴にまるで無警戒)であったために起きた事件、すなわち、ポルトガル人自身による計画的で組織的な大量「誘拐」事件だった、という深刻な疑いを申し上げました。

しかも、この問題がポルトガル人による「誘拐」事件だということは、イエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョが自らの書簡にもそう記していたことが、岡本先生の『十六世紀 日欧交通史の研究』(P770)に紹介されていて、その書簡では、コエリョが豊臣秀吉に九州の実態を知られるのを怖れていた様子まで分かります。
 
 
(太閤様の家臣等)その用務を帯びて長崎に至らば、ポルトガル商人の放縦なる生活の実見者たるべし。太閤様曰(いわ)く、宣教者は聖教を布(し)くと雖(いえど)も、その教を明らさまに実行するは彼等商人なりと。彼等商人は若き人妻を奪ひて妾となし、児童を船に拐(かどわ)かし行きて奴隷となすを以て、多数の人は寧(むし)ろ死を択(えら)びて処決するなり。
(原典:Delplace, Le Catholicisme, I, p, 244 所引)
 

このように犯行現場では、奴隷にされると知った「児童」の相当数が途中で自殺した(!…)とコエリョは書いていたわけで、無残きわまりない犯行が、九州一帯でくり広げられていたことになります。

これでは秀吉の怒りが激烈であったのも当然と思うばかりですが、その反対に、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニァーノがインドのゴアで作成させた『天正遣欧使節記』(エドゥアルド・デ・サンデ編)は、そんな犯行を完全否定したばかりか、むしろ180度真逆の結論に持って行こうとした捏造(ねつぞう)の文言が満載です。
 

有名な絵の、中央上が全行程に同行したディオゴ・メスキータ、右上が
伊東マンショ、右下が千々石ミゲル、左下が原マルチノ、左上が中浦ジュリアン

ご承知のごとく天正遣欧少年使節は、天正10年、ヴァリニャーノの発案で、キリシタン大名の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、4人の少年使節らをローマへ送り出した一大事業でしたが、『天正遣欧使節記』はその成果を大々的にアピールし、なおかつ少年使節が日本に帰国する前にキリスト教の禁教令が出てしまった難局を打開するため、急拠、仕立てられた本でした。

(※これは少年使節らの「対話形式」という珍しいスタイルで、読みやすさを工夫したものの、今から見れば、少年4人がこんなに多分野の内容を学者のごとく語れたか!?… というウサン臭さの方がむしろ際立っています)
(※ちなみに日本語の翻訳版は、ようやく昭和17年に東洋文庫から出た『天正年間 遣欧使節見聞対話録』が最初で、当ブログで扱う『天正遣欧使節記』と訳文の中身は同一です)

本の全体は、ヨーロッパ社会とキリスト教の優位さ・冨の絶大さを賛美した前半と、使節一行の行程を細かく紹介した後半とで構成され、注目の「日本人奴隷」の責任回避をはかる文言の数々は、前半の「対話十四 ヨーロッパにおいてふつうに行なわれる海賊の有様について」の中にあります。
文言のいくつかを登場順にザッと並べてみますと…
 
 
(『天正遣欧使節記』泉井久之助ほか共訳/昭和44年版より抜粋)

ミゲル「同国人をさながら家畜か駄獣のように、こんなに安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
マンショ「ミゲルよ、わが民族についてその慨(なげ)きをなさるのはしごく当然だ」
   …
マルチノ「単にポルトガル人へ売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでくれるからだ」
   …
ミゲル「この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで…」
   …
レオ「全日本の覇者なる関白殿 Quambacudono が裁可された法律はほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない」
ミゲル「そうだ。その法律はもしその遵守に当る下役人がその励行に眼を閉じたり、売手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。」
   …
ミゲル「しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨーロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない」

 
 
―――! 二枚舌、三枚舌もいいかげんにしろっ… と叫びたくなるほどの文言が、これでもか、これでもかと続く中で、秀吉当人にはおべっかを使うあたりが、実に見苦しいばかりでウンザリするような内容です。

しかしヴァリニァーノ本人は、この『天正遣欧使節記』をその後の日本で、神学生の教則本として配布する計画をもくろんでいたことが、巻頭の序言に明記されておりまして、いや現実には、そんなヴァリニァーノの悪計(日本人奴隷の評価=売った日本人が悪いのだ)は歴史的に成功したのではあるまいか… と私なんぞは思わず戦慄してしまうのです。
 
 
 
<<「誘拐」は「誘拐ビジネス」になると、被害者数が爆発的に増大する>>
 
 
 
さて、当ブログは前回記事から <日本人奴隷は少年少女であり、ポルトガル人自身による計画的・組織的な大量「誘拐」事件だった> という強い疑いを申し上げてまいりましたが、果たして日本人奴隷の「総数」は、16世紀半ば~17世紀初頭の約50年間で、どれほどの規模に達していたのでしょうか?

その総数について、岡本良知先生の著書には「この半世紀の如く多数に我が同胞が購はれ去ったのは、恐らく我が歴史上未曾有のことに属する」(P766)という風に、明治時代に海外に売られた日本人女性=いわゆる「からゆきさん」のケースを上回る規模であった可能性を示しつつも、具体的な数については「想像することも出来ない」と言及を避けておられます。

(※前回にご紹介した『大航海時代の日本人奴隷』や『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』も同様であり、具体的な総数については全く触れておりません)

しかしこれを改めて「児童誘拐」という観点から見ますと、被害者の総数について、多少の手がかりが得られるような気もいたします。

【ご参考】中国・済南市の広場に並べられた行方不明の子供の写真文春オンラインより)

現在、世界でいちばん児童誘拐が多発している国はアメリカで、これは離婚した夫婦の片方による子供の連れ去りが大きく影響したものですから、今回の記事の参考にはならないものの、一方、この10年ほどで一気に世界第二位の「誘拐大国」と言われるようになった中国の状況は、ちょっと見逃せないように感じます。

と申しますのも、例えば上記写真の文春オンラインの記事では「香港紙『文匯報』によると、中国で1年間に立件される子どもや女性の誘拐事件は約2万件で、1日平均50件とのこと。また2015年にNHKは、中国で行方不明(誘拐のみとは限らない)になる児童数は年間20万人に達すると伝えている」そうです。

誘拐された児童は多くの場合、ノルマを課せられた「物乞い」要員として売られたり、将来が不安な高齢者夫婦の世話やアメリカの養子縁組用に売り飛ばされたり、果ては臓器売買のドナーにされたり(※中には殺されずに眼球だけ取られた子供の事件も…)と、国内外に “熱烈な買い手” が無尽蔵にいるため、警察の摘発が追いつかないペースで誘拐ビジネスが蔓延(まんえん)してしまったようです。

中国全土で年間20万人と言えば、もちろん現代の中国と16~17世紀の日本(しかも九州限定)では人口の規模があまりに違うのですが、どちらも “熱烈な買い手” がいる児童誘拐というのは、犯行の容易さもあって、組織的にやれば急ピッチで被害者数が拡大してしまう、という側面は変わらなかったのではないでしょうか。
 

そして問題の「50万人説」の出どころとして、ネット上で指摘される本がこちら。

さて、そんな中で、日本人奴隷の総数は「50万人」という、インパクトのある数字を記した史料があると書いて注目されたのが、山田盟子著『ウサギたちが渡った断魂橋(どわんほんちゃお)』上巻(1995年)で、天正遣欧少年使節の少年マルテー(原マルチノ)らが、以下のごとく語った史料があるのだと言います。
 
 
(同書からの引用/P26)

 有馬のオランダ教科書にその文が使用されてますが、ミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐盛らは、
「行く先々でおなじ日本人が、数多く奴隷にされ、鉄の足枷をはめられ、ムチうたれるのは、家畜なみでみるに忍びない」
「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りはもっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」
 すると大村純忠のさしむけた少年マルテーは、
「われらとおなじ日本人が、どこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を鎖でつながれ、われわれをみて哀れみをうったえる眼ざしは辛くてならぬ……肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしにつながれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。われわれの見た範囲で、ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。…

 
 
という風に、この本は書いたものの、ところがなんと、この本の少年使節らの「言葉」というのは、対話形式の『天正遣欧使節記』の中には見当たらず、似たような意味合いの対話は前出「対話十四」にあるものの、そこには「五十万」といった具体的な数字は一切、出て来ないのです。

(※ちなみに、ルイス・フロイスがポルトガル語で書いた『九州三侯遣欧使節行記』岡本良知訳注にも「五十万人」という数字は無く、1586年にローマで出版されたグィド・グアルチェリの『天正遣欧使節記』は、残念ながら日本語の翻訳が手に入らずに未確認です)

したがって山田著書の引用先の「有馬のオランダ教科書」とは、どういう文献なのか、著者に確認してみたいところですが、そんな状態にも関わらず、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』下巻2005年が「五十万」という数字をそのまま引用したことで、一気に50万人説が世間に広まりました。

で、私なんぞの印象では…

【疑問1】 引用部分の後半の「少年マルテー」の言葉が『天正遣欧使節記』に無いのは勿論ながら、前半のミゲルやマンショが語ったとされる言葉についても、まったく同じ言葉は『天正遣欧使節記』に無く、もっと長い別の『天正遣欧使節記』にある言葉を “要約したような” 言葉になっていること

【疑問2】『天正遣欧使節記』の方は、売った日本人が悪いという(イエズス会の責任逃れのための)日本批判のニュアンスが色濃いのに、そうした日本批判の直接的な文言が(巧妙に)抜け落ちていること

という二つの点から、私なんぞは一見して、これは、誰かの手が入った文章だ、と感じざるを得ないのですが、それは誰の手なのか、当時~江戸時代のオランダ人なのか? それとも近現代の日本人なのか? が興味の的と言えそうです。

(※→オランダは当時、ポルトガルと世界の海上覇権を争う「敵対国」でもありましたから、意図的にポルトガルを貶(おとし)める “改ざん版” の類いが存在したのか、それとも近現代の日本において、誰かが「五十万」という数字を、勝手に書き加えてしまったのか……)
 

では最後に、『完訳フロイス日本史』で知られた松田毅一先生は、『天正遣欧使節記』に対して「キリスト教世界には「暴力」も「叛乱」も僭主もなく、正義が行きわたり、そこは比類ない平和の園であるとヴァリニァーノが記し、使節たちがそれを信じたとすれば、まさに「聖なる偽り」としか譬(たと)えようがない」と、大変に厳しい見方をされました。(松田毅一『天正遣欧使節』1977年)

それと同様に、今回取り上げた日本人奴隷の問題が、もしも列強や戦勝国の「嘘(うそ)」「偽り」で塗り固めた歴史であるなら、それは絶対に見逃すことができませんし、問題になっている「約50年間で50万人以上」という被害者数について、私自身は、そう荒唐無稽(こうとうむけい)な、的外れな数字とも思えないのが正直なところです。

そう感じる理由は、冒頭の奴隷船の話で、もし本当に南蛮船一隻に「数百」の日本人奴隷を積み込んだのなら、仮にそうした船が年に一度、九州各地の港(長崎・平戸・後戸など)から各々時期を分けて出航したと単純計算すれば、合わせて年に2000人ほどの日本人奴隷を運び出すことは出来たのかもしれません。

そしてそれが50年間続いたと単純計算しますと、総数は2000×50で、これでも実に「10万人」…という規模に達してしまうからです。
 
 

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