チベット高層礼拝堂「クンブム」の眼からウロコの刺激的な容姿

チベット高層礼拝堂「クンブム」の眼からウロコの刺激的な容姿

前回の記事でちょっとだけ触れた『完訳フロイス日本史』の松田毅一先生の著書『天正遣欧使節』1977年の中には、こんな一節もありまして、まさに。と感じいるものでした。

(同書より)

ヨーロッパの都市、宮殿、城塞を日本のそれらと比較して優劣を論じることは不可能である。
それは、ブルーノ・タウト以来の「東照宮」と「桂離宮」比較論と同類であろう。仮に互いにそれを華麗さを誇るエスコリアール宮東照宮の比較に置きかえたところで、後者は陽明門をはじめとするいくつかの建築のみを対象とすべきものではない。
芭蕉の句「あらたうと青葉若葉の日の光」ではないが、東照宮はそれを包む鬱蒼たる杉林と共に眺めるべく評価すべきもので、殺伐たる広野に夢のように浮ぶ「石と金銀」のエスコリアールとは、優劣の対象とはなり得ない。

――― 確かにおっしゃるとおりで、ご覧の二つは言わば “別次元の魅力” で人々に感銘を与えて来たのでしょうから、その優劣は論じられない、という松田先生の見方は、日本人ならずとも、いや、むしろ外国人の皆さんの方が積極的に賛同してくれるのかもしれません。

しかも松田先生はこの中で「それはブルーノ・タウト以来の「東照宮」と「桂離宮」比較論と同類であろう」という風に、ブルーノ・タウトの問題もここで指摘していたことには、初めて気づきまして、よけいにハッとさせられました。
(※→当サイトの2013-2014年度リポート冒頭部分)

きっと松田先生は、「東照宮」と「桂離宮」を比較してしまうこと自体が、タウトのようなモダニズム信奉者の価値観に我々を引きずり込む手段に他ならず、それは、はなから桂離宮の「簡素な美」を持ち上げるための論法だとおっしゃりたかったのでしょう。

ですから、そうして【東照宮と桂離宮の優劣は論じられない】ということであれば、当サイトで織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らが建造して来た「天守」…なかんずく金色に輝く黄金天守について、アレコレと十年間も申し上げて来た私なんぞとしては、いくぶん胸をなでおろすことが出来そうです。

 
 
 
<頂上の天守と「三段重ね」基壇の呪文のごとき関係>
 
 
 

さて、ご覧のジオラマは、以前にヤフオク!に出品して落札された「★豊臣期大坂城本丸復元模型★ジオラマ 完成品 細密自作品」の告知用写真でして、おそらく城郭模型製作工房ブログの島充様の作品かと思いますが、この写真が、次の説明においてまことに分かり易い写真であるため、あえてここに表示させていただきました。

で、何を申し上げたいかというと、ご覧の写真は秀吉の大坂城を北西側から眺めた姿であり、この手前側に大坂の主たる城下町が広がっていたのですから、この面は言わば、大坂城の「表面(おもてめん)」とでも申せましょう。

そしてこの面の特徴として、天守の下に巨大な「三段重ねの石垣」が築かれていたことは、誰の眼にも明らかでありまして、これは例えば小牧山城の発掘で判明した三段の石垣や、岐阜城の山頂をめぐっていたらしき何段かの石垣とも共通しているように見え、ひょっとすると秀吉は、これら織田信長の “城づくりのセオリー” を大坂築城で模倣(もほう)したのではなかったでしょうか。

岐阜城の現地案内板より(下絵は伊奈波神社蔵「稲葉城址之図」)

では、こうした「何段重ねの石垣」というのはどこから発想されたのか… 織田信長は何を思って三段重ねを採用したのか? と考えた場合、防御面や石垣の技術的な制約、「見せる城」の観点等からは色々とご指摘もありましょうが、とりわけ「三段」という数字だけに着目した場合には、その原典は「須弥山(しゅみせん)」の仏教的伝承にあったと考えるのが極めて合理的だろうと思うのです。

例えば松田先生の『完訳フロイス日本史』には、岐阜城の山頂の「主城」にルイス・フロイスらが招かれたとき、「彼(信長)は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は二時間半、または三時間も続きましたが」との記述があります。

この本を読むかぎり、どうも信長は、まずは自分が聞きたい “答え” を誘導する質問を出すクセがあったようで、この時の質問の本音は「山頂まで登って拝見した信長様の城は、まるで須弥山の善見城のようです」とでも、フロイスに言わせたかったのではないでしょうか?

【ご参考】仏教の世界観を示すために江戸末期に考案された「須弥山儀」の絵

ご承知のとおり仏教が発祥した古代インドでは、世界は神仏のすむ高さ8万由旬=高さ56万km!の「須弥山」を中心に広がっていたとされ、ご覧の須弥山儀は、そんな世界観を人々に分かりやすく見せようとした “地球儀” の類いだそうです。


(※須弥山儀の詳しい見方は、「歴博」第116号の説明文などをご参照下さい)

パゴダの代表例、ミャンマーのシュエダゴン・パゴダ(15世紀の再建)

かくして仏教の世界観は、アジア各地において無数の仏塔(ストゥーパ/パゴダ)の造形に反映され、中央の塔と何段かの「基壇」というスタイルが反復増殖されて来たわけですから、信長の「三段重ねの石垣」もまた、そうしたアジアの様式を取り入れつつ、自らの御殿や天主をおごそかに見せるねらいがあった、と見るのが自然なのでしょう。

――― ところが、ところが、その一方で、「須弥山」の本家本元?のチベット仏教においては、信長もそれを見ていたなら、さぞや驚がくの、奇跡的な建築物が生まれていた… というのが、今回の記事のメインテーマなのです。
 
 
 
 
<チベットの高層礼拝堂「クンブム」Kumbum の眼からウロコの刺激的な容姿>
 
 
 

チベット仏教で「須弥山」と見なされる聖地・カイラス山(Mt.Kailash 6656m)


さて、ご覧のカイラス山は、一見して、エベレストより神々しく見え、いかにも須弥山と見なされて当然と思える山ですが、こういう山の印象が、現地の人々に思い切った建築物を築かせたのでしょう。

当ブログはこれまでに、ヒマラヤ地方の国々には、我が国の天守や櫓にそっくりな建物が多々あって、実に興味深いということ(インド北部の唐造りの「角塔」ブータンの要塞寺院「ゾン」)を申し上げたものの、そんな中でも、チベット寺院の高層礼拝堂「クンブム」Kumbum にこれまで触れずじまいだったことは、たいへんな落ち度だったと言わざるをえません。…
 

チベット最大の建造物とも言われる、ギャンツェ・クンブム Gyantse Kumbum

これも、下半分の五段重ねは「基壇」なのかと思いきや……

!!…… これって、織田信長が創造したはずの「立体的御殿」=安土城天主などの「天守」の原初的な形態と、まるで同じ発想だったのでは―――

すなわち、下層階で数多くの部屋を立体的に逓減(ていげん)させながら組み上げ、その上に象徴的なストゥーパなどを載せて天高く屹立(きつりつ)させる、という建築の発想は、まさに安土城天主、と言わずして、何と言えばいいのでしょうか。

宮上茂隆案とのほぼ同縮尺の比較

…… では冷静に、クンブムの紹介をさせていただきますと、チベットの「クンブム」は「十万の仏像」を意味する言葉だそうで、ご覧のものは城壁都市ギャンツェのパンコル・チョーデ(白居寺/1418年創建)内に建てられた高さ34mの9階建ての建物ですが、2階から8階にかけて内部に77(76とも)の礼拝堂があって、そこに彫刻や壁画の仏像が無数にあるため、クンブム(十万の仏像)と呼ばれるのだそうです。
(別名:パンコル・チョルテン=白居寺の仏塔という意味)

外形的には5階建ての正方形の礼拝堂群の上に、円形のストゥーパを載せた構造ということで、これを英語では the ‘tower upon tower’ structure(塔上塔構造?)などと言うそうですが、南側の正面入口から入ると、2階に20の礼拝堂、3階に16、4階に20、5階に12、6階に4、7階に1つ、8階にも1つの礼拝堂(…これだと合計74?)があるらしく、調査した立面図によれば、これらの部屋の中心部には土壇か地山の類いが組み込まれております。

そして現在、チベットには、ご覧のギャンツェ・クンブムの他に、二つのクンブムが現存するそうです。

ジョナン・クンブム Jonang Kumbum

チョン リウォチェ・クンブム Chung Riwoche Kumbum

クンブムは日本人研究者による調査が殆ど行われていないのかもしれず、今回のタイトルでは思わず「高層礼拝堂」などと呼んでしまいましたが、信長の天主(立体的御殿)との時空を超えた “合致” は、建築の発想にとどまらず、建物の建つ位置にまで及んでいたようなのです。

実は…

ギャンツェ・ゾン(Gyantse dzong)

山頂の「ゾン」から見下ろした旧市街の反対側(北端)に「クンブム」はある

すでにお気づきの方もいらっしゃったかと思いますが、以前にご紹介したギャンツェ・ゾンと対峙する位置の平地にクンブムは建っておりまして、この意味では、むしろ岐阜城の千畳敷御殿の「四階建て楼閣」!!… の方を話題にすべきだったのかもしれません。

本当に、ギャンツェという場所は、死ぬ前に一度は行ってみたい… いや、死んでも見に行くべき場所だと思えてきました。
 
 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。