駿府城で新発見の天守台=家康の「小傳主」を見おろす新式の層塔型天守が想起されてなりません

駿府城で新発見の天守台 = 家康の「小傳主」を見おろす新式の層塔型天守が想起されてなりません

臨時公開日の、発掘現場のほぼ全景(手前が徳川家康による再建天守台の北西角)
→ 奥の本丸寄りに新発見の天守台跡があり、見学者が集っている


望遠レンズで。一番手前のカラーコーンが新発見天守台の北西角!!


西側をグルッと回りこんで現場に接近。左下が再建天守台の南西角


左側の大ぶりな隅石(かなりの加工!)が新発見天守台の南西角


手前の石垣などを着色で補足説明 → 高さはあくまでも暫定(ざんてい)的なもの


少しだけ南側に回りこんだ様子(※奥の山は発掘で掘り出した栗石や石材)


これもまた着色で補足説明すると…
(※「天正期入口」との説明だが、この低さで「入口」とは石段の導入部か?)


その「天正期入口」から東側に続く石垣


同じアングルで画角を広げて見た様子
(※ただの赤カラーコーンが新発見天守台、白ハチマキのが再建天守台の目印だが…)


ここは二つの天守台跡がややズレて、入れ子状態になっている。
とても分かりにくいので、また着色すると…


当日配布の資料の図にも同じ色で着色
→ 新発見の天守台は、家康再建天守台の南東側に微妙にズレた位置にある

いま話題の現地は、一見して、大小二つの天守台が重なって築かれた跡を “腑分け(ふわけ)” するように発掘してありまして、さながら天守築造の『解体新書』のごとく感じるもので、ここは将来的に、天守築造の歴史やメカニズムを日本人に語りかけていく「聖地」になるのではないか… という予感がいたしました。

その意味で申せば、この日もひっきりなしに見学者がやって来ていて、世間の関心度の高さがうかがわれ、この勢いですと、市長がめざす家康再建天守台の復元計画は頓挫(とんざ)せざるをえなくなった?(→新発見の天守台を埋めてしまうのか!!! との意見が集中するのは必定だろう)と感じたほどで、ここはむしろ中国の兵馬俑(へいばよう)博物館のように、このまま巨大なドーム屋根でもかけて、未来永劫、展示保存すべきではないのかと感じたほどです。

殺到し始めた見学者に対して、調査員の方は二人がかりで説明を行なっていた

報道ですでにご承知のとおり、ここでは今年6月~7月に金箔瓦が330点(調査員のマツイさんによれば、金箔が明確でない同様の瓦も含めると400点)も出土し、そして8月までに新発見の天守台石垣(傾斜角度58度/再建天守台は70度)が南北約37m、東西約33mの規模で姿を現したため、おなじみの中井均先生、小和田哲男先生らの現地視察の結果、豊臣大名の中村一氏(なかむら かずうじ)の時代に築かれたものと推定されました。

で、かく申す私は、ご覧の年度リポートにおいて、大御所・家康が晩年に再び居城とした駿府城が、慶長12年の年末の火災で本丸が全焼したのち、翌年から天守台と天守を再建していくまでのプロセスについて、下記の『清光公(せいこうこう)済美録』(=火災直前の二之丸の石垣普請に加わった浅野幸長の伝記)にある二之丸丁場図に着目しながら、思いきった大胆仮説を申し上げました。

何故ならこの丁場図にも、のちの家康再建天守台から南東側にズレた位置に「御天守」と明記された巨大な四角形があるからです。

慶長12年秋(火災直前)の天下普請を示した「駿府城二之丸石垣丁場図」


下の左図:上記の「駿府城二之丸石垣丁場図」
下の右図:明治時代に陸軍が実測した「日本城郭史料」第16冊中の駿府城



試(ため)しに、左図の縦横の比率を変えながら、両図をダブらせると…

このように火災直前の「御天守」は、家康再建天守台よりも南東側にズレた位置にあり、しかもこの二之丸工事の時期、大工棟梁の中井正清はずっと京都にいて駿府にはいなかったため、私の年度リポートでは、図の「御天守」というのは、中村一氏から内藤信成の時代を越えて、ずっとこの場に建ち続けていた「豊臣大名の天守」であり、慶長12年末の火災で焼けたのはこの豊臣の天守であって、それまで家康自身はこの天守を(天守台の四角形の巨大さの分だけ石垣を築き足して)使い続けるつもりだったのでは…… との大胆仮説を申し上げたわけです。

ですから冒頭写真の臨時公開の日には、新発見の天守台とは、この二之丸丁場図に描かれた「御天守」そのものではないのか?… その点を見極めたい、との心づもりで現地に行ったところ、汗だくの調査員のマツイさんには、私の手前勝手な質問の連発に丁寧にお答えいただき、たいへん参考になりました。

【マツイさんとの一問一答】
質問:新たな金箔瓦が大量に見つかったそうだが、どういう状態で発見されたのか?
答え:慶長期の天守台(当ブログ記事でいう家康再建天守台)の南西側の堀底に、まとめて“廃棄された”状態で見つかった。
質問:「慶長期(再建天守台)」と「天正期(新発見天守台)」の石垣の遺構は、ほとんど同じ高さで見られる状態だが、両方の遺構の重なり方はどうなっているのか?
答え:天正期の天守台は当時ほとんど崩されることなく、そのまま慶長期の天守台の築造に利用されたらしく、慶長期のが覆いかぶさるように築かれている。天正期で崩されたのは、慶長期天守台の石段のあたりだけ。
   (※補足:最終的に両方を写真のごとく破壊したのは、もちろん明治の陸軍)
質問:慶長12年の年末に火災があったが、この発掘現場全体で焼けた痕跡はどのくらいあるのか?
答え:慶長期、天正期をふくめて、石垣には焼けた痕跡はひとつも無い。それは地上の焼けた部分の石垣は、当時すべて撤去されたからではないかと思う。ただし、焼けた瓦はほんのわずかだが見つかっている。
質問:焼けた瓦はいつの時代か分かるものか?
答え:慶長期の瓦だと言えると思う。
質問:慶長12年の火災の前に、二之丸の石垣の天下普請が行なわれて、その様子を記録した絵図があるが、そこには新発見の天正期天守台のように、南東側にズレた形で「御天守」が描かれている。私はこれらは同じものではないかと思って来たのだが、どう思われるか?
答え:今日の午前中にも同じ質問をした方がいた。しかし私が思うに、あの絵図の状況では、普請に加わった大名らは、本丸の内部を見ることは出来なかったはずだ。したがって、あの絵図に描かれた天守の位置は、信ぴょう性が低いと感じている。でも、はっきりしたことは私も分からない。

――― いや、マツイさんのお答えは実に参考になるもので、とりわけ最後のお答えは、私に新たなインスピレーションを与えてくれるものでした。(→後述)

結局のところ、今回の発掘成果を踏まえれば、私の大胆仮説は <半分は当っていたが、半分は間違っていた> とハッキリ確信するに至りましたので、今回の記事では、数年越しの「リポート総括」を申し上げつつ、現地で強く感じた「中村一氏の天守」のアウトライン(=こうでなくては不合理になる大枠)を是非とも述べさせていただきたいのです。
 
 
 
<論点1.新発見の天守台は、やはり二之丸丁場図の「御天守」の可能性が濃厚…>
 
 
 
では、新発見の天守台と二之丸丁場図がどれほど合致するのか、まずは目で見て確認しないと話が前に進みませんので、年度リポートの時と同様に、陸軍の測量図を介しながら両図を(出来るだけ正しく)ダブらせてみます。

すると…

え?… 「御天守」の四角形は、ムラサキ色の新発見天守台よりもかなり大きくなってしまい、とても “同じもの” とは言い難い状態です。

しかし、しかし、もう一度よくご覧いただきたいのは、図の左側に二之丸の「清水御門」が描かれていますが、丁場図(赤い表示の方)は「清水御門」も、とてつもなく過大に描かれたことがお分かりでしょう。

しかも丁場図は、ここまでの作業(複写)の過程で、文字(墨書)がすっかりツブレてしまっていて、改めてこれらを活字で表示し直しますと…

! ……ここで、先ほどの「マツイさんの最後の指摘」が生きて来るのではないでしょうか?

すなわち、二之丸の石垣普請に加わった大名らの中で、火災前の「御天守」をいちばん間近に見ながら作業を行なっていたのは、この「清水御門」の両側の石垣を築いた者達ではないかと思うのです。

そしてそれは誰かと言うと、門の両側の墨書は「羽柴三左衛門尉」(=池田輝政)と「同 備前衆」ですので、もし彼ら池田家家臣の誰かが「我々が見た御天守の大きさは、清水御門の何割か大きい横幅だったぞ」といった情報をもたらしたならば、ご覧のような過大な「御天守」が描かれても、そう不思議ではないと感じるのですが、いかがでしょうか。

幅十三間=約26mの清水御門に対して、天守台は地表面近くで約37m=十八間半

発表された新発見天守台の数値は、あくまでも地表面近くの計測値であり、この天守台の天端(てんば=上端)がどれほど “すぼまっていた” かは、天守台の高さによって決まることですから、高ければ高いほど、清水御門の横幅に近い数値になったほずです。

で、注目の天守台の高さのお話は、このあとすぐ申し上げますが、以上のとおり、新発見天守台が二之丸丁場図の「御天守」と同じもの(→中村一氏の時代から再度の家康時代の慶長12年末の火災まで、ずっとそこに在り続けた天守台)である可能性は、かなり強い、と感じられてならないものの、その一方で、石垣の傾斜角度が新旧で58度と70度と明らかに違うため、その「御天守」石垣が、慶長12年7月に徳川家康によって “築き足された石垣” と仮定した私の大胆仮説は、半分は間違っていたことになります。

(※ちなみに一連の発掘成果によって「家康は駿府城で天守を三度建てた」とか「その二度目の天守が建造中に火事で焼けた」とかいう話は、極めて厳しい状況になったわけです)
 
 
 
<論点2.新発見天守台の高さや天端の状態をさぐるうえで、まず参考とすべきは、
     「同時代・同形式・同規模」の 躑躅ヶ崎館や会津若松城の天守台のはずだが…>

 
 

【反例】2015~16年の表面波探査で、豊臣秀吉の聚楽第の天守台は、
    内掘に大きく突き出した40m四方の「正方形」平面と推定された

(※木づちで地面をたたき、表面波を計測して地中を調べる京大などの共同研究チーム)

当サイトが作成した聚楽第マップ → 今回の新発見天守台とは明らかに形状が異なる
(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成しました)

 

【ご参考】新発見天守台と「同時代・同形状・同規模」の実例1

躑躅(つつじ)ヶ崎館の増築天守台
 



ご覧の城絵図は、もと武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館の江戸時代の様子
主郭の北西隅に「増築」された天守台がある。墨書で高さは「四間半」


一段目の天守台の「天端」は33m×30m、新発見天守台を上回る広さか

 
 
【ご参考】新発見天守台と「同時代・同形状・同規模」の実例2

会津若松城天守の天守台
 


天守台の「天端」は34m×28mで、これも新発見天守台をしのぐ広さか


蒲生時代の天守台の高さは帯郭側で12m、本丸側で11m(5間半)
その現存天守台の上に、11間四方のままの「七重天守」を推定したイラスト

どうも今回のマスコミ発表の言葉づかいや、現地の調査員の方々の説明ぶりもそうだったのですが、アピールポイントの主眼が、当時の城主は中村一氏というややマイナーな豊臣大名なのに、なぜ天下人・豊臣秀吉の「聚楽第」級の大型の天守台や大量の金箔瓦が出土したのか? という疑問に対して、なんとか理由をつけることにあり、そこに多大なエネルギーが費やされているようです。

ですが私なんぞは、そんな心配は本当に要るのだろうか… という引いた感覚もありまして、何故なら新発見天守台の南北37m・東西33mというデータは、あくまでも地表面近くの数値であって、天守台が高くなれば、アッという間に「並み」の広さになってしまうからです。

もし万が一、高さが1間とか2間程度しかない異様に低い天守台であったなら、チョット慌てなくてはなりませんが(※→このケースに当てはまるのが秀吉の肥前名古屋城の本丸側の天守台高さですが、この天守台の天端の広さは21.4m×17.2m/柱割で7間×6間しかないと見られていますので…)そうではなくて、先ほどご覧いただいた「同時代→天正から文禄年間、同形式→平城などの矩形の本丸の北西隅に、南北に長い天守台を築いたスタイル、同規模→天端の広さで同等」という範囲に当てはまる躑躅ヶ崎館や会津若松城を参考にしつつ推定した場合には、注目の天守台は、けっこうな高さになるはずです。

仮に、躑躅ヶ崎館(四間半)と会津若松城(五間半)の間の数値をとって、高さは本丸地表面から「五間」だったと仮定しますと、石垣の傾斜角度は58度ですから、東西・南北ともに天端までに約六間半ずつは “すぼまる” ことになり…

なんと、南北37m(約18間半)はマイナス6間半で「12間」、東西33m(約16間半)はマイナス6間半で「10間」となり、この広さは豊臣時代の有力大名であれば、極めて妥当な規模の天守であり、奇(く)しくも、この後に徳川家康が再建する慶長度の駿府城大天守を! ここに当てはめることも出来たサイズなのです。

――― そう考えたとき、家康の秘められた目論見(もくろみ)が、ぼんやり見えて来たような気はするものの、それはもう少し検討を重ねることにしまして、ここは中村一氏が築いた「御天守」の方を優先しますと、同時代・同形式・同規模の躑躅ヶ崎館と会津若松城の天守が、どちらも「9間四方」「11間四方」という整然としたデザインであったことは、ちょっと見逃せないと思うのです。

(※次回に続く。今回は触れられなかった「金箔瓦」の件も含めて)
 

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