【続報/駿府城】家康の「小傳主」を見おろす新式の層塔型天守が想起されてなりません

【続報/駿府城】家康の「小傳主」を見おろす新式の層塔型天守が想起されてなりません

前回の発掘現場の写真とは違って、今回は、申し上げる事柄が、静岡市の発表からはみ出すことばかりで恐縮ですが、まずは話題の「金箔瓦」の件から―――

今夏に掘底跡から大量に出土した金箔瓦。実にみごとな輝き

(※ご覧の写真は静岡新聞@S[アットエス]からの引用です)

そして一方、2016年12月に一点だけ出土した “かすかな” 金箔瓦

(※こちらは発掘後の洗浄でようやく金箔瓦と判明し、翌年の報道では「今回見つかった金箔瓦は、織田信長系の城にみられる、瓦の凹部に金箔を貼り付けたものではなく、凸部に金箔を貼り付けた豊臣秀吉系のもので、駿府城の改修の歴史を知る上で貴重な発見だ」と話題に。)

――― 最初に何を申し上げたいのか、もうお察しかもしれませんが、今夏、慶長期の天守台(徳川家康による再建天守台)の西側の掘底跡から見つかった大量の金箔瓦は、11月22日から一般公開になるそうで、それまではハッキリと申し上げられないものの、マスコミ発表の写真を見るかぎり、あまりにも!金箔の状態の良過ぎる瓦があるようです。

実はこの件に関しても、前回記事で一問一答をご紹介した調査員のマツイさんに現地でお尋ねしたのですが、マツイさんは「状態の良い金箔瓦は、それほど長い間、風雨にさらされないうちに廃棄された瓦だろう」という点では同意されました。

では、そのことが何故、興味を引くかと申しますと、新発見天守台の “主” とされる中村一氏が駿府に入封した天正18年(1590年)から間もない時期に、これら金箔瓦が天守に葺かれたのだとしますと、家康が二度目に駿府を居城とする慶長12年(1607年)まで、ゆうに「十数年間」は風雨にさらされた可能性もあるはずで、それにしては、金箔の状態が良過ぎるからです。…

【ご参考】安土城の搦手口で出土した、未使用の金箔瓦と言われるもの

ご覧のとおり、駿府城で新発見の金箔瓦には、ほとんど「未使用」と言ってもいい瓦が含まれているのかもしれません。

仮にそれらは中村一氏の時代、葺き換えのために「新調」した瓦か、一氏の子・一忠(かずただ)が米子に移封された直後に天守から「撤去」した瓦だと考えますと、一忠の米子移封は慶長5年11月でしたから、その瓦は、家康が天守台を再建する慶長13年の半ばまで、約7年間も(良い状態を保つために)どこかの屋内にしまわれていたか、別の地中に埋められた後にわざわざ掘り出されて、再建天守台脇の堀の完成とともに、改めて「廃棄」されたことになります。!?…

そんなことがありえたか? という当然の疑問が浮上するうえ、まさか慶長6年から城主の内藤信成(家康の家臣)が新調した瓦とも思えませんので、結果的に、状態の良過ぎる金箔瓦は、お宝としての見栄えはいいものの、たいへんな「謎」を我々に投げ掛けているようなのです。

では、いったい誰が、これらの金箔瓦を「新調」しつつも「未使用」に近い状態のまま、再建天守台脇の堀に「大量廃棄」したのか……

ここは是非とも冷静に、冷静にお考えいただきたいのですが、私は密かに、そんなことが出来た “容疑者” は、時系列のアリバイを確認して行けば、残るは一人しか居ないではないか! と感じておりまして、現段階では、またしても、静岡市の発表に逆らうような「結論」を夢想しております。

すなわち、新発見の天守台と、新発見の金箔瓦は、必ずしも「同一城主のものではなかった」可能性も―――…

そうであるなら、今回の発見では、史上初の(『当代記』等の文献史料でしか知られていなかった)徳川家康自身の金箔瓦の発見(!!!)という歴史的名誉が、現地の調査員の方々に贈られることになるのかもしれない… などと密かに夢想しているところでして、果たして真相はどうなのか、私の勝手な妄想に過ぎないのか、問題の金箔瓦の一般公開を心待ちにしております。

(※注1:念のため申し添えますと、だからと言って、中村時代の天守に金箔瓦が無かった、などと申し上げたいわけではございません)
(※注2:なお臨時公開日の説明では、金箔瓦は慶長期の堀底跡から見つかった、という風に聞こえたので即座に不思議だと感じましたが、もしも正しくは、天正期の堀底跡から見つかった、ということであれば、以上の事柄はすべて私の取り越し苦労ですので、公開日に確認のうえ、出来るだけ早く当ブログでお知らせ致します)

【この件の訂正記事を、次の回の後半にアップしておりますので、是非ともご参照下さい】
 

五重大天守と小天守がやや離れて並び立つ、駿府城の “定番” の描き方
(『東海道五十三駅画巻』より)

さて、次は天守そのものの話題に変わりまして、ご覧の東海道絵巻の駿府城の絵は、これと似たものが江戸時代を通じて繰り返し絵巻や屏風に描かれて来ましたが、ここには「五重天守」があるため、この天守は間違いなく慶長期の家康再建天守を描いたもの、と固(かた)く信じられて来ました。

しかし今回の新発見によって、五重大天守と小天守が並び立つ、という描き方は、本当に慶長期の家康再建天守の景観から産まれたものと限定していいのだろうか… という新たな心配が生じますし、とりわけ当サイトの年度リポートの作図をふり返るなら、心配はさらに大きくならざるをえません。

2013-2014年度リポートより
慶長期の家康再建天守の絵図として最有力の、大日本報徳社蔵『駿州府中御城図』



同絵図を、静岡県立図書館蔵『御本丸御天主台跡之図』に基づく平面イラストにダブらせると…


ご覧のとおり、家康再建天守の絵図として最有力の『駿州府中御城図』にシッカリと基づくならば、この時の小天守台の上には「小天守」ではなくて「多聞櫓」がL字形にめぐっていた!!――― というのは明白この上ない事ですし、この事を無視した復元CGなどが何故、平気で世の中に出回っているのか、私なんぞはまったく理解できないからです。

したがって家康再建天守は、少なくとも天守台の周辺には、大天守と「大小二つで並び立つ」ほどの小天守は存在しなかったでしょうし、そんな厳密な見方からすると、前出の東海道絵巻の描き方は、いったいいつの時代に始まったパターンなのか、よく分からなくなるのです。

そんななか、大天守から “やや離れた” 小天守という点で申せば、当ブログで何度も申し上げた、徳川家康が天正17年に建造した「小傳主」(『家忠日記』より)が非常に気になるわけで、今回の新発見を踏まえた上でも、以下のごとき状況は、中村一氏の時代に十分にありえたことではないでしょうか?




(『東海道五十三次屏風』より)

!! …ということで、駿府城のお決まりの描き方は、むしろ、中村一氏のころの景観が大いに影響したのではあるまいか?? との、思わぬ疑念が持ち上がって来るのです。

【前回ブログから】
新発見天守台と同時期・同形式・同規模の、躑躅ヶ崎館と会津若松城の天守台

 
 
 
<そして前回ブログの推論を押し進めるなら―――
 なぜ天守台上に「余裕」を持たせたのか? それは、ゆがんだ天守台の上に
 整然とした層塔型天守を建てるための、もう一つの対処方法だったのでは>

 
 
 



さてさて、ではここで前回ブログの推論をさらに押し進めてみたいのですが、新発見天守台の上面には、躑躅(つつじ)ヶ崎館や会津若松城と同様の「余裕(余地)」があったと仮定するなら、そこに建っていた天守は、文禄元年?に創建の会津若松城(七重?)天守にも似た、何間四方かの整然とした「層塔型天守」… だったのかもしれません。

しかし、おなじみの三浦正幸先生によれば、史上初の層塔型天守とは、慶長9年から13年にかけて籐堂高虎が今治城で建造した天守である、と説明されて来ていて、それは会津若松城の天守創建の10年以上も後のことになるため、同じ豊臣政権下の中村一氏の駿府城に早くも「層塔型天守」を想像するのは、三浦先生の学説からは逸脱する考え方です。

ではありますが、そもそも何故、三浦先生が今治城を史上初の事例とお考えになったのか、その論拠をふり返ると、慶長15年頃までは技術的に天守台上面をゆがんだ形に築くことしか出来ず、そんなゆがみに対処しづらい層塔型天守は「石垣築造技術の飛躍的な発展を待たねばならなかった」というのが三浦先生の持論だそうですが、その点、今治城は…

(歴史群像シリーズ『よみがえる日本の城 10』からの引用)

本丸の中央の平地(現、吹揚神社)には、天守台を築かずに、五重天守が創建された。天守の竣工年代は明確ではないが、慶長九年から慶長十三年(一六〇八)の間であろう。高虎が今治城に築いた天守は、それまでの旧式な望楼型天守とは違って、新式の層塔型であった。
(中略)
そんな最新鋭の天守が竣工するかしないかの慶長十三年、高虎は自ら望んで伊賀伊勢へ転封し、それに伴って、今治城天守は解体された。そして、慶長十五年(一六一〇)に丹波亀山城(京都府)の天下普請を高虎が担当した際に、解体してあった今治城天守は亀山城天守として家康に献上され、明治維新まで亀山の空にそびえ、日本全国の天守の手本となったのである。

古写真で確かに「層塔型」と見える亀山城天守

という風に、三浦先生は、古写真で確認できる最古の層塔型の亀山城天守が、それ以前に今治城の本丸の「平地」に直に建っていたのなら、天守台築造の未熟さ(ゆがみ)は関係なかったわけで、それこそが史上初の層塔型天守であろう、と推論されたのでした。

―――― ということは、石垣のゆがみを回避するもう一つの対処方法として、まさに会津若松城のごとく <天守台上に「余裕」を設ける> というやり方でも、ゆがんだままの天守台に層塔型天守を建てることは、十二分に可能だったのではないでしょうか。!!(→ 現に寛永16年に加藤明成は、この天守台上に層塔型天守を改築で建てております)

正直に申しまして、今回の新発見を受けて、躑躅ヶ崎館(→当ブログでは天守台を増築したのは加藤光康と推理)や会津若松城の天守台は、そんな考え方を無言のうちに伝えていたのだと、初めて気づいた次第でありまして、きっと中村一氏の「御天守」とそれらの天守は、文禄年間に、東国の大大名=徳川家康や伊達政宗を包囲すべく、新式の層塔型天守として一斉に!建てられたものと夢想するのですが、いかがでしょうか。

徳川家康の「小傳主」を見おろす、中村一氏の層塔型天守か……

 

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

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