低い位置の床は駿府城天守も?との見方に合致する「築城図屏風」

低い位置の床は 駿府城天守も?との見方に合致する「築城図屏風」

まずは前回のブログ記事で、会津若松城の七重天守の「懸出し」は、幕末の五重天守とは方角が90度ズレていたのかもしれない、というお話をしましたが、そうなると七重天守のイラストも早速、改訂版を作るべきかもしれません。…

しかし、ひょっとしてひょっとすると、もう一つの可能性もありそうでして、それは『会津若松史』で藤岡通夫先生が引用した古文書の「但上より」「段上より」! の書きまちがい(→会津藩の役人?)であったなら、下図のように五重天守の描写の一種としてはありうるかもしれませんし、ひるがえって『領国絵図』の七重天守も「北面」で正しかった可能性が出てきます。

よもや、とは思いますが、こんな「異例な」数え方も、全くありえないとは断言できませんので、こんな状況のもとでは、とりあえず、イラストの方の改訂版は留保させていただきたいと思うのです。

…… ことほど作用に、史料の見方には細心の注意が必要でしょうが、下記の「築城図屏風」は当サイトが駿府城天守の復元のために注目してきた史料であり、その描写の中にも(これまでに一度も申し上げていない)不思議な描き方が含まれていて、まことに無鉄砲ながら、今回はこちらの件を申し上げましょう。

名古屋市博物館蔵「築城図屏風」より




平側の破風の配置はまったく同じ手法か / 駿府城天守?と名古屋城大天守

→ 例えば天守の片側(右側)の描写に着目すると、これは絵師が片側の情報(立面図など)だけで
“四方正面の天守” を無理やり描いた結果なのでは、とも思えて来る

さて、当サイトでは上記の図解のごとく、「築城図屏風」こそ、徳川家康が慶長12年末の駿府城本丸火災の後に再建した天守を、ややイレギュラーな形で、図中に描き込んだ屏風であろう、と推理してまいりました。

そしてこの描写の中には、年度リポートを作成した時から「不思議だなぁ」と感じてきた部分が含まれていて、それは天守の四重目の壁面が、他の階とは明らかに違う描き方になっている点でした。

四重目は黒い腰板の上にいきなり「鉄砲狭間」が並んでいる

このとおり四重目は、上下の階と比べれば 黒い腰板の上にいきなり鉄砲狭間が並んでおりまして――― ということは、この四重目は「窓」がどの位置になるのか、皆目わからないことになります。(→ 鉄砲狭間の下に窓があることは普通はありえないため)

これはきっと絵師の単純な描きあやまりだろうとも思っていたのですが、ここへ来て、絵師はまったく逆に “かなり的確な描写” をしていたのかもしれない、と思えて来たのです。何故なら…

築城図屏風からさぐった再建天守のアウトライン

当サイトはご覧のように再建天守を考えておりますが、問題の四重目は、妻側(略図の左側の面)に巨大な唐破風があったものと(※小堀遠州が関与した天守のデザイン→寛永度の二条城天守などに見られた常套手段として)想定いたしました。



そしてイラストの巨大な唐破風の妻壁に「窓」を描き込んだのは、私の老婆心から出た工夫でしたが、これをいま改めて見直しますと…

!……… やや我田引水のこじつけと感じられるかもしれませんが、このように床が低い位置にあって、それと唐破風の窓がピッタリと合致していて、隠し石落しもあり、そして上部の鉄砲狭間は姫路城天守の石打棚(いしうちだな)に似た構造と考えれば、まさに屏風絵の不思議な描写は、駿府城天守も低い位置に床が張られていた! ということの無言の証言だったのかもしれない、と思えて来たのです。




しかも「低い位置の床」という考え方に立てば、すぐ上の五重目・六重目は
右側の略図のとおりに別々の階であった、との解釈で符合することにもなります!…

かくして、前々回のブログ記事で、徳川将軍の層塔型天守のうち 「低い位置の床をあわせ持ったエポックメイキングな原点の天守は、駿府城再建天守に違いない」 などと申し上げたのは、以上のごとき状況証拠から思い至った推理なのですが、いかがお感じでしょうか。
 
 
【追記】理文先生のお城NEWS解説 の「第2回 中村一氏の駿府城天守を推理する」について

さてさて、昨年末の当ブログ記事では、発見された中村一氏時代の天守台の南北37m・東西33mという計測値は、あくまでも地表面近くの数値であって、天守台が高くなればアッという間に「並み」の広さになってしまう、との心配事を申し上げました。

仮に、天守台の高さが現状から「五間」10mあった場合のシミュレーション

ところが、皆様おなじみの加藤理文先生の「お城NEWS解説」では、このシミュレーションよりもずっと広い天守台天端(てんば)を想定されていて、その規模は「南北35m×東西30m程」としておられます。(→ 面積でシミュレーションの2倍以上になる)

姿を現した中村一氏時代の天守台(説明会当時) 傾斜のゆるやかさ

で、この場を借りて、加藤先生の想定に対しまして、まことに畏(おそ)れながら… と申し上げるならば、中村時代の天守台石垣は「傾斜58度」との報告も出ておりますので、やはり、そんなに広い天守台天端(てんば)は、物理的に無理なのでは?? と思えてなりませんので、たいへん僭越(せんえつ)ながら、この場で下記の「図解」をご高覧いただきたく思う次第なのです。…
 

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