二代将軍・秀忠時代の「元和度天守」を前回イラストに描き加えると、天守初重のねらいが浮上

【余談】G7は中国に 香港国家安全維持法の撤回 を要請しています
G7 urges China to reconsider new Hong Kong security laws.

なんと、同法は38条で、中国への憎悪をつのらせる言動をした者は、
法律の規定では 外国にいる外国人でも終身刑に問える という(!)
人類史上最狂の治安法だそうで、海外の報道によれば、G7による撤回要請は
英ジョンソン首相の提案に 安倍総理が応じて実現したもの だとか。

(※G7の存在意義 → → 韓国は 文(ムン)政権のままで「G7」に入れますか?… )



ひきつづき緊急引用=デイリー新潮より】
<「河井案里」捜査の裏に “検事総長の怨念”。敵は安倍官邸>

※話題の主、稲田伸夫検事総長 63才

ベテラン議員秘書:「正直、1万5千円ではまともなウグイス嬢は雇えないというのが常識です」

そして、あの望月衣塑子・東京新聞記者のツイートをきっかけにした「#稲田検事総長を守ろう」もある、というドロドロの実態。新聞やTV局はまるで報道しておりませんが。……もはや「退任」で許されるような罪ではないでしょうに。

※          ※          ※
 

で、今日の本題に入る前に、ご覧のイラストについて、ちょっとだけ補足をさせていただきますと、それは「1600坪(80m四方)の…」という推定の根拠 → すなわち細川家史料『部分御旧記』にある「加藤忠広ノ分担セル坪数」「御天守之台 坪数 千六百八拾坪」という部分の、「坪」という単位に関してです。

当ブログでは「坪」をふつうに面積(一坪=一間四方)ととらえて、徳川家康時代の江戸城には、約80m四方の天守曲輪があった、という風に申し上げました。

しかし「坪」には別の使い方もあって、例えば白峰旬先生の研究ノート『近世初期(元和・寛永期)の公儀普請(城普請)の実態に関する考察Ⅰ-石材調達・石垣普請の事例を中心に-』を参照しますと、石垣工事に関連する「坪」の単位としては…

 1.栗石については「一間四方の箱」に入る分量を一坪と言った
 2.分担する石垣工事の量を示すときは「石垣の表面積」を坪数で数えた

という二種類の数え方もあったそうです。

そこで、そういう数え方で「1680坪」はどれほどになるのか? という当然の興味がわきますが、加藤忠広の担当した「御天守之台」を「1」の「栗石」だけで全部を数えたとするのは、チョット乱暴に過ぎるかと思いますので、やはり「2」の「石垣の表面積」で1680坪を計算してみますと…

 A.高さ6間では 長さ280間=約560m にもなってしまうものの、
 B.高さ10間では 長さ168間=約336m(つまり一辺84m四方の天守曲輪)

という結果になりまして、原典の『当代記』の数値(積み上がった高さ)が鉛直の高さであれば、石垣の傾斜角度もありますので、「B」はまさに、当ブログのイラストと、ほぼピッタリ合致することになります。

 
 
<二代将軍・秀忠時代の「元和度天守」を前回イラストに描き加えると、
 天守初重のねらいが浮上>

 
 

さてさて、前回ブログではこの「新イラスト」もご覧いただきましたが、この角度から眺めた本丸が、その後、どういう風に変わって行ったか??… という興味は、とりわけこの範囲に「次の徳川秀忠時代の元和度天守も建っていたはず!」と申し上げてきた私なんぞにとっては、非常に大きいものであり、なおかつ、そこから新たな妄想も生じて来そうです。

――― そこで今回もまた、この新イラストを出発点に “妄想のうわ塗り” をさせていただこうかと思うのです。

では早速、慶長12年の天守台修築を描いた新イラストから、その数年後の、徳川家康の最晩年(慶長19年)に「本丸山ノ手」=本丸西側と北側の石垣が築き直された状態を、イラスト上に描き加えてみましょう。
 


↓        ↓        ↓
【段階1】 慶長19年の石垣工事で本丸北西部の外向きの「土塁」が無くなり、
北部の三重の馬出し曲輪が埋め立てられて「大奥」の敷地が生まれる

ご覧の状態は、以前のブログ記事(「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング)でも申し上げたように、やや迷うところもあり、それは北部の三重の馬出し曲輪が埋め立てられたのは、この慶長19年の工事なのか、それとも秀忠時代の元和8年(元和度の天守台築造と同時)だったのか、私にはずっと悩ましい問題であり続けまして…

(以前のブログ記事より)

本丸御殿はそのままに、北側を高石垣にして、大坂の陣や元和偃武を迎えたことになる。
→ 広大な「?」スペースは、その間の8年間、どうなっていたのか?

という疑問がぬぐえないため、どうにも受け入れ難かったのです。(→ 慶長19年のあとは、元和8年まで、天守曲輪や本丸御殿に工事の記録は無い…)

しかし今回、よくよく考えてみますと、当時は、その間に豊臣氏が滅亡して家康が死去する、という激動の何年間かがあったわけですから、そうした影響で、江戸城内部が中途半端な状態のまま “ほったらかし” になっていた!としても、それは仕方がなかったのかもしれません。…
 
 
しかも別の観点から申しますと、慶長19年の石垣工事(本丸・西丸・内桜田見附など)を分担した計34家の大名は、九州・四国・中国・紀伊半島の有力な「西国大名」が軒並み集められた形でした。

ということは、時期を考えれば、この工事は豊臣秀頼を攻め立てる決戦(大坂の陣)に備えて、西国大名をクギ付けにするための “重要な政治案件” でもあったのかもしれず、そういう意味では、合理的な整合性を踏み外した工事になったとしても、あまり不思議では無かったのでしょう。

(ちなみに「本丸山ノ手」担当と伝わる大名は、細川忠興と島津忠興=佐土原城主だとか…)

ですから結局、上記の【段階1】イラストは「慶長19年に完了していた」と考えた方が良さそうでありまして、その8年後に、いよいよ…


↓        ↓        ↓
【段階2】 元和8年、巨大な天守曲輪が崩されて、本丸御殿の建て替えが行なわれる

↓        ↓        ↓
【段階3】 続いて天守曲輪の一部を利用して加藤忠広が小天守台を築造し、
一方、その北側のスペースに浅野長晟が大天守台を築こうとしたものの、
軟弱地盤のためか? 浅野家の工事だけが難航した……

ご覧のイラストは、5年前のブログ記事でもご紹介した、浅野家の普請場だけが「地盤に」予想外の問題を生じていた、との記録に基づくものです。

(『自得公済美録』5月28日付の若林孫右衛門の書状より)
 長晟(ながあきら)様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、

で、結局、大小の天守台はどんな風に完成したのか、という推定(妄想)もイラストにいたしますと…

↓        ↓        ↓
【段階4】 大小の連結式天守台が完成。最上部はやはり「二十間四方」だったか?

!!――― 何故、こんな風にまで申し上げられるのか? といえば、その根拠は(元和度天守の絵図として最有力とも言われた)大小二基の天守を描いた『江戸御天守』建地割絵図(中井家蔵)から読み取れる、大天守「初重」の特異な造りと「低い床の位置」だと申せましょう。

(二枚の絵図に分けて描かれた大小天守)
  

【注目点1】 長押が無い大天守初重は「窓」がほとんど無かったのかもしれない

このように当絵図の大小天守は「窓」に関する注意点がいくつか隠れていて、とりわけ初重にだけ長押がまわっていない、という様子は、例えば…

【ご参考】大工棟梁・松井家に伝わる金沢城 三階御櫓の絵図(再建用)


【ご参考】水戸城 御三階櫓 / 初重に窓が少ないのは勿論、防御上の措置だった

という風に、似たような事例も知られていますから、これらの造り(窓の少なさ)は、敵勢に建物一階の外壁に取り付かれやすい立地や構造の場合に、どうしても必要になった措置なのでしょう。

ということで、当絵図の特異な「初重」と、天守台の上に「空地」があったはずの「20間四方の切石天守台」の踏襲とは、絶妙に 符合するスタイルなのではないでしょうか。
 

【注目点2】 しかも二階の「床」は、元々低い位置であった可能性が濃厚ですから、
さらに低い位置であれば、破風には鉄砲狭間がズラリと並んだのかも…




昨年のブログ記事より / 発想はご覧の聚楽第や順天城の天守案と同じか)

………… 以上のとおり、前回の “妄想” を上塗りして来ますと、最終イラストの「20間四方の切石天守台」も、きっと周囲に狭間塀をあえて設けないタイプだったのだろう、という風に 妄想 は広がる一方なのです。

(次回に続く)

 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。