初重から三段の重箱構造は「殿主+天守」の過渡的なスタイルだったのか

【戦慄 (せんりつ) の余談】
いよいよ 似て来た二人。世界はどうするのか

ご覧の二人、アラブ民族主義を掲げて 一時は 世界四位の陸軍を築いたサダム・フセインと、扇動政治の「中国の夢」で 西洋由来の民主主義の打倒 を呼びかける 習近平。この二人には、独裁政党の党内ライバルの追い落としで「独裁者」に登りつめた共通点が。したがって、国民の熱狂的支持をかり立てて選挙に勝ったヒトラーとは、異質な二人である。

!――― フセイン政権が1988年、クルド人居住地で行なった毒ガス攻撃は、民間人に向けたものでは史上最悪の規模(死者3200人~5000人)に。

!――― そして習近平政権は、新疆(しんきょう)ウイグル自治区で100万人の強制収用や強制不妊手術による民族浄化やジェノサイド(大量虐殺)を行い、BBCの報道によれば、自治区のウイグル人の人口は3年間で84% 減少し、そこに大量の 漢族 が移住して 入れ替わっている(!……)という。
米国のイエレン財務長官が「おぞましい人権侵害」とコメントしたのも当然の有り様であって、こういうやり方が、世界の人々から 忌(い)み嫌われる 現状に。
 
こんなことは、少数「民族」が共産主義に邪魔で強制移住させたスターリンでさえ、やっておらず、一方、ヒトラーのホロコーストはキリスト教社会の「反ユダヤ主義」を極大化させたものであり、それらに比べて、サダム・フセインや習近平は「精神的な 了見の狭さが そうさせただけ」といった、非常に 嫌な共通点が!?…

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【 お 知 ら せ 】
最近の当ブログ記事と Google翻訳 のミスマッチについて

 
さて、このところ当ブログは「てんしゅ」の様々な表記 →「殿主」「天守」「天主」「殿守」の違いに注目しておりますが、実はこれらの表記は、Google翻訳では「天主」は英語で「God=神」になってしまい、「殿主」は「Lord=領主」になり、「天守」は「Tower」にしかならず、「殿守」は翻訳できずに「Dian Shou」になってしまう、という技術的な限界に直面しています。

日本語では「殿主」「天守」「天主」「殿守」はすべて「てんしゅ Tenshu」と読むものであり、漢字の表記が色々であったために、現代の外国の方々がGoogle翻訳で混乱する、という今の時代ならではの問題なのですが、大事なのは、従来は、意味においても、すべてが同じと考えられて来たものの、木子家指図 の墨書に(下の写真のごとく)書かれていたことから、一気に最近の話題や疑問が噴出しているわけです。

外国から当ブログをご覧の皆様はたいへんにご苦労でしょうが、この件は、技術的な解決が難しいものの、天守の「原点」や経緯をさぐる上で重要なテーマと感じますので、もう少しだけ、関連の話題を続けさせて下さい。

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当サイトの肥前名護屋城天守の推定イラスト


同じく七重であった頃の会津若松城天守を推定したイラスト

さてさて、これまで当サイトでは、ご覧のイラスト等で、初重から三重目までが「同大の重箱構造」の天守について取り上げましたが、これらは一つに、日本建築史の平井聖先生が七重の会津若松城天守に関して…

(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」/『歴史群像 名城シリーズ 会津若松城』より)

一つの仮定として、七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなどして形をととのえたということも考えられる。

と指摘されたことから、七重の頃の下三重分は、当然ながら「同大の重箱構造」のはず、という点に焦点を当てて 画像化したものでした。
 
 
さらに、そうした平井先生の指摘に加えて、駿府城天守をめぐる記録で下三重(→ 下記の史料では「元段」から「三之段」まで)がいずれも「十間 十二間」とはっきり記されたことにも、勇気づけられた画像だったと申せましょう。

(『当代記』 此殿守模様之事より)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
      懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
      懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
      懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
       破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
       鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金

 
 
そして今回、特に注目したいポイントは、ご覧のうちの「三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間」の部分は、他の文献記録では…

「三重目 九間に十一間 各々四面に欄あり」(慶長政事録)

という風に、桁行と梁間を一間ずつ小さく記録したものもあって、そのため諸先生方の解釈においては…

(当サイトの2013年度リポートより)
大竹正芳先生と香川元太郎先生、それぞれの復元画像の引用

(『名城の「天守」総覧』所収/大竹正芳「駿府城」より)

「三階は内側に幅半間の回縁がめぐり、外壁は雨具仕立で高欄が付けられていたとする説もある」

といった解釈がなされて来まして、そのように下三重のいちばん上の階(三階)だけが、あたかも <廻り縁が室内に取り込まれた形> のようだったとしますと、思わず私なんぞは、前々回記事で申し上げた <松江城天守の「明るい」最上階>!を連想せずにはいられないのです。

――― ですから、ひょっとすると、下三重が同大の重箱構造というのは、木子家棟梁の「てんしゅ」解釈(「殿主」と「天守」が上下に合体…)に照らせば、こんな風にも、見直せるものなのではないでしょうか?


↓         ↓         ↓

 
 
<初重から三段の重箱構造は「殿主+天守」の過渡的なスタイルだったのか>
 
 
 
上記の三つ並んだ図のように、天守の中層階に欄干(望楼)を設けたスタイルというのは、例えば北ノ庄城天守を描き込んだ古絵図など、絵画史料の中にチラホラと散見されるのですが、そういう “中途半端な構造” の意図とは何だったのか、これまで私なんぞにはいま一つ、理解できないものでした。

ところが上記の図のごとく、それは 初重の「殿主」とその上の「天守」が一体化していく過程での “過渡的なスタイル” であったのだ、と仮定しますと、今までよりずっと理解しやすく感じます。

また歴史的に多くの事例があった「下二重の重箱構造」の延長線上で、登りやすい望楼を設けるために「下三重の重箱構造」が出現したのならば、それはけっこう自然な発想とも言えそうです。
 
 
しかもそれは、現実的で、取り入れやすい手法だったかも… と思わざるをえないのは、現に、水戸城 にこんな天守(※三重五階建ての御三階櫓)が実在したからでしょう。
 

水戸城「御三階」の古写真より

思えば、これこそまさに、同大の重箱構造の下三重分のうち、いちばん上の階(三階)を、廻り縁を室内に取り込む(ような)形で「登りやすい望楼」にした、一つの典型だったのではないでしょうか?

――― で、そんな水戸城「御三階」を、江戸中期の明和6年(1769年)に再建にこぎつけたのは、水戸藩五代藩主の徳川宗翰(むねもと)と子の六代・治保(はるもり)でしたが、宗翰は再建工事を始めるにあたって、大工頭の橋本半左衛門にわざわざ「姫路城天守の写し図」を参照させて設計した、との伝承があるそうで、前身の櫓(三階物見)よりも、シャチ瓦や銅瓦を使って、天守風に豪勢に再建させたと言います。

!… ! … しかし、ハッキリ申しまして、一見して、姫路城天守に似た所はほとんど無いように見えますし、あえて、姫路城の意匠で似た部分を挙げるなら…

大天守の二重目(三階)南面の「出格子窓」とか


大天守(左側)から連なる渡櫓の内側壁面の「連格子」とか

?……… と、強いて申せば、部分的に似ていなくもないのでしょうが、やはり水戸城「御三階」の方は、三階に連格子をグルッと「全周を」見回せるように回した点などが、明らかに異なっていて、きっと姫路城天守の写し図からは <デザイン的な飛躍> が無ければ、ああはならなかったはずだと言わざるをえないでしょう。
 
 
ですから 宗翰(むねもと)には、何かもっと別の天守を、モチーフ(原形)として考えた節もあるように感じられてならないのですが、その背景を探るべく、宗翰の事績を確認しますと、まず驚くのは、宗翰自身は “豪勢な天守” とは縁遠い、かなり不遇な生涯をおくったことです。…

・享保15年 1730年:宗翰(むねもと)は3歳(満1歳)で藩主に就任
・宝暦5年 1755年:家老の太田資胤の負傷・引退によって藩の財政再建が頓挫(とんざ)する
・明和元年 1764年:火災で水戸城がほぼ全焼する
・明和3年 1766年:宗翰が死去。子の治保(はるもり)が16歳で跡を継ぐ
・明和6年 1769年:城の再建とともに「御三階」が再建される

このように「御三階」の再建は、5年前の水戸城全焼という災禍が原因でしたが、それ以前の問題として、宗翰(むねもと)の生涯に暗い陰を落としたのは、いわゆる「水戸黄門」二代藩主の徳川光圀(みつくに)が「三男」であったことに端を発した、水戸徳川家のお家の事情(→「長男」松平頼重は秘密裏に誕生して育てられた…)が見え隠れしたような気がしてなりません。

すなわち宗翰や子の治保(はるもり)は、「長男」頼重の系統から再び迎えられた人であって(同じ四代・宗堯むねたかは毒殺のウワサ有り)いずれも若年で藩主となったため、時の徳川将軍・吉宗の意を受けた付家老(中山信昌など)が藩政を支えたものの、宗翰は藩の財政再建が頓挫(とんざ)すると酒色におぼれるようになり、死の2年前には城がほぼ全焼してしまったのです。

なんと、徳川御三家の城が全焼!…… そんなドン詰まりのごとき状況下で「御三階」は再建されたわけであり、しかも水戸藩主は「江戸定府」が定めでしたから、城や御三階が再建された時も、六代・治保(はるもり)はずっと江戸詰めのままで、現場を見ていない!という状況がありました。

したがって、ひとえに、五代・宗翰の姫路城云々の「遺志」だけが生き残って、それが「御三階」の容姿に結実したのだ――― としか、現状では言いようの無い、不思議な力学のもとで、ご覧の建物は完成したようなのです。

……… こう見てまいりますと、水戸城「御三階」というのは、不遇な若き藩主の遺志が勝ったのか、それとも徳川御三家の城という体面を保つ力学が勝ったのか、真相はよく分かりませんが、言うなれば、時代に遅れて生まれて来た領主が、母国の全盛期に思いをはせるための築城 → さながら ルートヴィヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城のような存在であったのかもしれません。

そこで思わず、この「御三階」の容姿には、かなり思い切った「モチーフ」があったのではないかと、私なんぞは邪推するわけでして。…

(次回に続く)

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