いかにも移築の大天守だけが特別扱い。→家康のねらいは石田三成に対する完全否定か(封建制vs郡県制)

【 7月8日、世界の民主主義を支える重要人物の一人を、日本は失いました 】

…… 思えば「核共有」「不愉快だ…」が、伝えられた安倍元総理の遺言になってしまいましたが、この事態を、陰では、ほくそえんだり、声を殺して大笑いしている連中もいるのでしょう。
 
(※現にその後、中国のネット上は「歓喜の嵐」だという現実があるそうで、それに合わせるかのように、9日の午後まで中国の指導者=習近平は弔慰を示さなかったとか。…… )
 
まさに英ジョンソン首相の退陣表明に続く、安倍元総理の「暗殺」(=欧米諸国での受け止め方 / 韓国人も直感的に「暗殺だ」と感じたものの統一教会の件では慌てているらしい)といった事態は、民主主義陣営にとって、あまりにも大き過ぎる打撃です。
 
そして今回の警備の不手際につながる、直接の導火線の「火」は、今年3月の「この判決」から始まったとも、考えられるのではないでしょうか。
< 道警ヤジ排除に「違法」判決 >
→ → これがもしも遊説警備の手薄さや、SPらが瞬時に動けなかったこと、等々につながったのだとしたら、この先も非常に心配ですし、安倍元総理は「この判決」の犠牲者だろう、と感じられてならず、判決後の事態は原告たちの思う壺で(全国的に)推移していた… とも言えるのでしょう。

(※かつては左翼活動家も使った「水平2連の鉄パイプ銃」か)

しかも大変に気になるのは、その日、7月8日(日本時間19時)に行われた日米韓外相会合で、ニヤリと「笑顔」を見せた!林芳正外相のニュース映像は、関係する各国に、どれだけ不穏なメッセージを送ったことでしょうか。……

 

前回ブログより / 徳川家康が創建した二条城(慶長度)天守の推定イラスト

では、気を取り直して、ご覧のイラストに関連して、今回のブログで早速、補足しておくべき事柄を(いつもとチョット違った「番外編」で)色々と申し上げてまいりたいのですが、まず手始めに…
 

【 先日、中国の唐山市で暴露された「警匪一家」事件 】
「警匪一家」
=中国の地元警察はどこも、地元ヤクザと完全に結託していること

 
↓           ↓           ↓

監視カメラとSNSがあぶり出した中国のこんな実態に対して、我が国の場合を考えてみますと、初代の警視総監が薩摩藩士!!の川路利良(かわじ としよし/1834-1879)であったことは有名な話であり、つまり日本の警察はもともと「武士」の遺伝子を受け継いだ存在であって…



西南戦争での川路利良ひきいる「警視隊」(黒い軍服の抜刀隊)を描いた浮世絵


そして現在。今年の「大阪府警 年頭視閲式」からの引用写真
日頃は「どっちがヤクザかわからん」などと言われる大阪府警も、やるときはやる。

 
※           ※           ※
 

【 ではここから、中心的なテーマの「封建制vs郡県制」に直結する余談を 】

「帝政」からすぐに近現代に突入した中国やロシアは、
この先も、民主主義や法の支配が、永遠に根付かない ! ! ?…

思えば、約30年前のソ連崩壊の直後、「民主主義」の勝利を高らかにうたい上げた、米国の政治経済学者フランシス・フクヤマの著書『歴史の終わり』(1992年出版)は、最終的に到達すべき政治の姿は「民主主義」なのだから、それまでのファシズムや共産主義との闘いはすべて終わったのだ、との意味で『歴史の終わり』と名づけた本でした。

ところが『歴史の終わり』は、その後の中国・習近平の、監視テクノロジーによる独裁の強化(デジタル・ファッショ)という “逃げ道” を予想していなかったようですし、私なんぞが「グローバリズムの弊害」を心のバネにしつつ城や天守のブログを立ち上げた動機ともバッティング(→ 同書は「民族」を否定…)していて、かなり不満だったのですが、今般のプーチンの暴挙で、フランシス・フクヤマはどうなったか、と言えば…

(ウィキペディア「歴史の終わり」2022.06.25時点より)

… ロシアによる侵攻を受けたウクライナ情勢について、フクヤマは攻撃が始まった直後の2月26日に台湾の大学が開催したオンライン講演で「ウクライナへの侵略はリベラルな国際秩序に対する脅威であり、民主政治体制は一致団結して対抗しないとならない。 なぜならこれは(民主体制)全体に対する攻撃だからだ」と語った。
フクヤマは2015年ごろから中国に対して、「科学技術を駆使した高いレベルの権威主義体制には成功のチャンスがあり、自由主義世界にとって真の脅威になる」とも述べている。

(中略)
また別のインタビューでは、「究極の悪夢」は、中国がロシアのウクライナ侵攻を支持し、ロシアが中国の台湾侵攻を支持する世界であると述べた。
もしそれが起こればば「あなたは非民主的な力によって支配された世界に存在することになる。 米国とその他の西側諸国がそれを阻止できなければ、それは本当の歴史の終わりです」と述べた。

 
 
!…――― などとあって、アララララ… としか言いようの無い状態らしく、進歩の先には必ず「民主主義」がある、といった哲学はもう成り立たないようで、こうなりますと、私なんぞは、やはり、

■ 日本や欧米諸国のように「封建制」から近現代を迎えた国々は、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらも、封建制に特有の「家臣(下位の者)に大半を任せる→家臣らは自分で考える」といった重層的な社会であったことが功を奏して、やがて「民主主義」が根付いて成功したのに対して、

■ 中国やロシアのように「帝政」から近現代を迎えた国々は、様々な社会的困難を国民レベルで克服する習慣が出来ておらず、そのため結局は、独裁的な「共産主義」へと走り、その後は多少の民主化があっても、いまだに法の支配や民主主義が根付かず、独裁体制のままである、

といった、非常に大きな構図を、頭に思い描かざるをえません。!…

で、こうした「大きな構図」を私はどこで聞きかじったのか、実は記憶がおぼろげで、私自身が非常に困っているところなのですが(※今谷明先生の『封建制の文明史観』だったでしょうか… )とにかく昨今の国際情勢=中ロの惨状!を見るにつけ、これはますます確信を深めざるをえない構図です。
 
 
(※※ 細かい追記 / この議論を複雑にするのは「農奴」の存在であり、帝政ロシアの苛烈な農奴制までも「封建制度」だと言ってしまうのが、間違いの始まりではないでしょうか。→ 左翼の理論的ご都合のせい?…。
その一方で、われわれ城郭ファンは、戦国から江戸時代まで、日本の百姓が実は大量の武器を隠し持っていて、自前の「村の城」まで備えていたことを知っておりますし、百姓一揆の要求は領主側がほぼ丸呑みせざるをえませんでした。 つまり、武士の軍事力=武芸・武術というのは、武士どうしの合戦のためのもので、百姓を押さえ込む鎮圧の軍事力ではなかった、という点が、非情に重要だろうと思われます)

 
 
そんな中では例えば…

石平『新中国史 王の時代、皇帝の時代』2022年

――― ご覧の本は、習近平を「あのアホが」と公言してはばからない評論家の石平(せき へい)さんの著書でして、石さんは歴史学者ではなく、文章も口述筆記のように優しい文章なのですが、ある時、この本の「ねらい」→下記の宣伝文を見かけて、がぜん強い興味をおぼえて、一読してみました。

石さん近影

(amazonの宣伝文より)

著者は長年の探求によって、一つの新しい見方を発見した。 中国四千年(およそ3600年)を「王の時代」と「皇帝の時代」の二つに分ける、というものだ。 この視点から見れば、秦の始皇帝による支配も袁世凱の帝政復活も毛沢東の文化大革命も、そして習近平の個人独裁も一つのメカニズムから把握できる。
では、二つの時代は何が違うのか。 端的にいえば、この国でお馴染みの民衆の反乱、王朝崩壊の繰り返しは始皇帝の「皇帝の時代」から始まった、ということである。 逆にいえば始皇帝以前の「王の時代」の中国は、むしろ日本に似た「和」の国だった。…

 
 
という風に、石さんは、かの「始皇帝」以後の帝政(中央集権の郡県制)こそが異様なものであり、それはいつも民衆の大規模反乱で帝国が滅びることの繰り返し → → そもそも、皇帝=独裁者が間違えたら一巻の終わりという「欠陥」を隠したまま、それを「易姓(えきせい)革命」などと偉そうに(えらそうに)説明する統治形態であって、ためしに始皇帝「以前」と「以後」で大きく二つに中国史を分けて考えると、非常に面白い発見があって、習近平や中国共産党の独裁もその中で説明できてしまう、と言うのです。

そして始皇帝「以前」を考えてみれば、古代国家の「周」の善政などが、ずっと中国人のあこがれであり続けて来たわけで、そんな「王の時代」の封建制の方にこそ本当の魅力があり、逆に、その後は、欠陥を隠した帝政が2100年間も!続いてしまい、今なお形を変えて続行中の「皇帝政治」は、原理的に国民レベルの自発性や責任感を失わせる(※統治者には好都合の)システムであって、もう中国人にも「災いでしかない」のだと。
 
 
(※※ そう聞いて私は思わず、戦後の韓国で、歴代の主な「大統領」が全員、退任後に牢屋にぶち込まれたり、自殺したりしたのは、まさに始皇帝「以後」の中国の悪癖がもろに影響したことのように思えて来まして、そうなると韓国は今後も、大統領制を続けるかぎり、大統領は必ず=新任のユン・ソクヨルも!そうなるのではありませんか。 ご注意ご注意。)
 
 
――― では、ひるがえって、我が国が歩んだ歴史を考えますと、江戸時代の武家社会や幕藩体制という強固な「封建制」を(※歴史的には分国法も作ってきた戦国大名らの譲れない一線を出発点にして)築き上げた武将・「徳川家康」への注目度が、いやがおうにも高まらざるをえないはずだと、私なんぞはいま、この上なく感じているところなのです。…
 
 
 
< いかにも移築の大天守だけが特別扱い。
  家康のねらいは石田三成に対する完全否定か(封建制vs郡県制)>

 
 



徳川家康と石田三成

→ → 家康が二条城を創建したのは、関ヶ原合戦で三成らの西軍を打ち破り、
三成本人をとらえて、まさに京の六条河原で「斬首」にした翌年のこと。

さてさて、ようやくご覧の天守画イラストの話題にたどり着きましたが、あえて申しますと、上記のイラストには私の勝手な「推量」も含まれる以上、これの背景を自らアレコレと分析するのはみっともない感じもいたしますので、手短かに、簡潔に述べさせていただきましょう。

家康が豊臣政権下で頼りにした重要人物・豊臣秀長

豊臣秀吉の弟・秀長が、豊臣政権下では外様の「分権派」大大名の取りまとめ役を自任しつつ、家康らとの融和に心をくだいた事については、当ブログでも取り上げましたが、そんな稀有な人物・秀長というのは、家康らから見れば、さながら “封建制の庇護者” と見えたのかもしれません。

ですからその後、家康がわざわざ、秀長の大和郡山城天守を自らの城に「そのまま移築」したことは、家康なりの強い執着やこだわりがあってのこと、と思えてなりませんし、しかもその大天守だけに「鉛瓦」?を使ったり、大天守の石垣だけに「切石」?を使ったり、といった <いかにも移築の大天守だけを特別扱い> した節がありうるのは、尋常な配慮ではないでしょう。
 
 
そして一方、石田三成が、かなり早い段階から家康ら「大大名」の存在を警戒していて、とりわけ家康を目の敵(かたき)にした事は、当ブログでも何度か触れました

そこでは、おなじみの藤田達生先生が、著書『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』などで指摘された「預治思想にもとづく大名の官僚化」「鉢植大名」というフレーズに注目させていただいたのですが、理想の豊臣体制をめざす三成にとって、家康の行動などは “真逆の封建社会” をいまだに望む、忌々(ゆゆ)しき策動、としか見えなかったのではないでしょうか。

そしてついに、両者は関ヶ原で激突したわけで、ご覧の屏風絵には、三成の有名な旗印「大一大万大吉」が特徴的に描かれていて、この旗印は(歴史的に同じものを家紋とした武将もいたそうですが)意味は依然として不明のようです。

一説には「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」などの解釈が言われたものの、もしも前述のごとく、三成の理想が、武家+公家筆頭の!豊臣氏と一体化した天皇家のもとでの「官僚化大名による郡県制」であったのなら、「大一大万大吉」とは「一君万民(万歳)」を意味したようにも感じます。!…
 

※           ※           ※

 
かくして、二条城の慶長度天守には、家康の三成に対する完全否定(=強烈なアンチテーゼ)が込められていたのかもしれない… と妄想している次第なのです。

すなわち、当ブログで最初から申し上げてきた「天守の変質」=天守は当初、天下布武の版図の拡大を敵側に示したモニュメントであったのが、幕藩体制下では各藩の(分権統治の)中心を領内に示すモニュメントに変質した、といった大転換を、この天守は独特の「移築」によって、みごとに体現していたのかもしれない、と感じるのですが、いかがでしょうか。……

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。