日本人の「城の築き方」がなぜチベット周辺に酷似?―― 摩訶不思議な現象を「縄文人」DNA研究と突き合わせれば…

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やみくもな民放TVの「統一教会」批判は、
早くも左翼勢力が着手した <山上容疑者を死刑にさせない
・実刑にもさせない運動> の一環なのでしょうが……





視聴者の目から見れば、こんな
悪らつな教団に祝辞を送ったり、投票をたのんだりした政治家は
<< 死んでも しょうがないでしょ >>
との印象操作を、番組をあげて大合唱!…しているように、見えます。



 
――― こう申し上げるのは、世界の歴史において
「政治的テロはやったもの勝ち」
といった結末が、決して少なくはない、
からで。

◆ トロツキー暗殺の実行犯ラモン・メルカデル(スペイン共産党員)は、死刑の無い国メキシコで刑期を満了させ、念願のソ連に入国してレーニン勲章を受けた。/ ◆ ガンジー暗殺の実行犯ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセは、絞首刑になったものの、関係がウワサされた民族主義団体が2014年になって、モディ首相に胸像の設置をすすめた。

◆ 伊藤博文暗殺の実行犯・安重根(あん じゅうこん)は、絞首刑になったが、2014年、韓国政府の依頼で、暗殺現場のチャイナ(中国)・ハルビン駅に安重根記念館がオープン。/ ◆ 豪腕の“平民宰相”原敬(はら たかし)を暗殺した国鉄職員の中岡艮一(こんいち)は、異例のスピード裁判で無期懲役になり、しかも3回の恩赦と減刑で13年後には出獄し、昭和55年まで一般社会で寿命をまっとうした。

◆ キング牧師を暗殺した、脱獄囚で実行犯のジェームズ・アール・レイは、国外逃亡の末につかまり、禁固99年の刑に。その30年目に刑務所内で病死した。/ ◆ エジプトのサダト大統領を暗殺した軍人ハリド・イスランブリは、銃殺刑になったものの、対立するイスラム主義国のイランでは切手のデザインになった。
 
したがって、山上徹也容疑者がこの先、どうなるのか? 日本はどうするのか?(→「社会的影響の大きさ」が「刑の重さ」につながるのが今の日本の裁判ですが)どんな結論になるのか、「世界」や「周辺国」が沈黙のうちに注視しているのは、間違いありません。

(撃たれる2分半前の状況)

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すべての日本人が驚き、
チャイナ(中国)人のアイデンティティが根底からひっくり返る!?

→ → 衝撃的な推理をもたらす、アジア人のDNA(Y染色体)分析結果。

 

 
 
< 日本人の「城の築き方」がなぜチベット周辺に酷似?――
  摩訶不思議な現象を「縄文人」DNA研究と突き合わせれば… >

 
 
 
さてさて、当ブログでは、これまで再三再四にわたり、日本とヒマラヤ・チベット周辺国との「城の築き方の酷似」について(※その最初は建築家の神谷武夫先生のサイト「インド・ヒマラヤ建築紀行」に触発されつつ)取り上げてまいりました。

【第198回】いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?

【第218回】幻の石山本願寺城から ブータンの要塞寺院「ゾン」へ

【第286回】チベット高層礼拝堂「クンブム」の眼からウロコの刺激的な容姿

【第342回】何のための「多層」建築か?……チベットが教えてくれる本質的な答え

といった形の他にも度々、取り上げて来たものの、それぞれの「酷似」現象については、不思議だ。不思議だ。と思うばかりで、その原因や関連性の道筋などは、なんの手がかりも得られませんでした。

ところが最近、あるyoutube動画を見かけたところ、ありゃりゃりゃ?… と驚きの発見をしまして、それは前回記事の「チャイナ(中国)」云々とも関係の深い「発見」でしたので、今回はひとまず、その件をご報告させていただこうかと思うのです。
 

【 話の前提となる、日本とチベット周辺の「城の築き方の酷似」とは 】
 
例えば【事例1】 コトカイ城 Kotkhai Fort/Kotkhai Palace

インド北部のヒマラヤ山脈(ヒマーチャル・プラデーシュ州)で12世紀に始まったコトカイの町は、カルタル・シン Kartar Singh の一族が5代にわたって統治した地で、丘の上に城(宮殿)があり、コットは王宮、カイは深さを意味し、コトカイとは「奥深くに位置する王宮」の意味だとか。

城の構造は、神谷先生によれば「城郭全体は 細長い中庭を囲む広大な建物が3層の石造壁の上に載っている」そうで、内部は計6階建て。 石造壁の上に木造部分を載せて「外敵」から防御した、チベット周辺の伝統的な建て方です。 城の最も古い部分は約600年前のもので、主要な扉は10インチの厚さがあり、古いコインを貼り付けて強化している、のだとか。…

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<< 酷似!>> これは当然ながら、日本の城郭ファンは「飛騨高山城の本丸」を連想せずにはいられないものであり、築城の発想が同じ、と言わざるをえないでしょう。

 

【事例2】 カネッティ・デオリ城 Khaneti Deori Durbar

写真はコトカイ城を築いたラナサハブ王が、至近のカネッティに建てたもう一つの城(宮殿)であり、ほとんど同じ構造ながらも、この写真では塔部の最上階が日本の「唐造り」と同様だということが明快ですし、しかもここは、上から二重目に「出窓の張り出し」まで設けてあります。

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<< 酷似!>> こんな姿には、唐造り(南蛮造り)の高松城天守や小倉城天守を連想してしまいますし、私なんぞは、解体調査で判明した石川康長時代の松本城天守の張り出し(※慶長18年当時を推定した天守画イラスト)を想わざるをえません。



 

【事例3】 シェガー・ゾン Shegar dzong

築城の酷似は、決して建物だけでなく、山城のどの範囲を「城域」として防御するか、といった感覚にも及んでいて、(※過去のブログ記事ではネパールの事例と間違ってご紹介しました)チャイナ・チベット自治区のシェガー・ゾン(→ 水晶の要塞寺院という意味/別名クリスタル・フォート)は、チベット仏教ゲルク派の修道院を守ったゾン(要塞寺院)であり、山頂から中腹までの山の片面を城壁で防御しました。

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<< 酷似!>> ご覧の松山城(『松山城下図屏風』)も、山の片側斜面を走る「登り石垣」で山頂の本丸から山麓中段の二之丸までを囲みつつ、その下に三之丸を配置した構造であり、これはシェガー・ゾンにそっくりだと申せましょう。

また、シェガー・ゾンの修道院の入口の一つは、外壁が頑丈で荒々しくても、入口周辺がすでに内部の華麗さをただよわせていて、どこか豊臣秀吉の「見せる城」や徳川の二条城などの豪華な「玄関」を想わせます。

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例えば伏見の御香宮神社の拝殿は、寛永2年に徳川頼宣の寄進で再建された社寺建築ですが、唐破風の奥に極彩色の彫刻があり、「見せる城」の華麗さを彷彿(ほうふつ)とさせるものです。

 
……… とまぁ、かくのごとく、日本人の「城の築き方」が、ヒマラヤ・チベット周辺国の城砦に色々と似ていたことに対して、その理由や原因がまるで思い当たらず、不思議で不思議で、しょうがなかったわけですが―――
 

そんな中で、冒頭で申し上げた、最近ふと見かけたyoutubeというのは、茂木誠さんの「教科書には無いDNA解析で分かった古代日本人の起源」でありまして、(※茂木さんのyoutubeを拝見したのは初めてでしたが)その中では「太古のアジアは、全域に縄文人と同じ遺伝子が拡がっていたはず」との解説があって、「縄文人」にはド素人以前の私としては、目からウロコというか、脳内に“鐘の音”が鳴り響いたような気がいたしました。

まさに、それならば「築城の感覚」がいつのまにか似て来ても、不思議ではないのかもしれませんし、様々な「酷似」の事例は、「縄文人」の祖先の時代から、我々日本人とチベット周辺の人々が、ともに脳内にたくわえて来た「防衛本能」のごとき記憶の作用だったのかも――― と。
 
 
(※※ ちなみに、そのyoutubeでも使われた、冒頭のDNA(Y染色体)分析結果の円グラフの地図は、「出典」が示されてなかったため、ネット上をチェックしますと、どうやら、サイト「崗上虜囚の備忘録」の「崗上虜囚」氏が自作したものらしく、氏は「情報の出所はウィキペディアの「日本人」からです。地図と円グラフはGMTを使って私が書きました」とも書き込みをしていて、確かにウィキペディア「日本人」には <日本人および周辺の諸民族のY染色体ハプログループの割合> の一覧表があって、これに基づいたのでしょう)

他の外国人の方の自作図も、ウィキペディア「ハプログループD(Y染色体)」に。

(※※「ハプログループ」とは、良く似たDNA配列の集団のことであり、これをミトコンドリア=女系や、Y染色体=男系に注目して調べますと、民族の由来や系統を「科学的に」特定できるため、社会的に大きな関心を集めております)
 

ことほど左様(さよう)に、近年は「縄文人」理解の大幅な見直しが進んでいて、今や「縄文人」への主な関心事は、どこからやって来たか? ではなくて、

<< 地球上のどの範囲にまで「縄文人」は広がっていたのか?? >>

という段階にまで、好事家の関心や話題は沸騰(ふっとう)中、のようなのです。
 

そして「縄文人」の名の由来の縄文土器も、実に秀逸な作品…が発掘されていて…
(※写真は東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」より)

 
 
< チャイナ大陸は、その昔は、ゆるやかで温和な「縄文大陸」だった! !?
  それを日本列島とチベット高原という「東西」に分断したものは何か >
 
< DNA分析という現代の「ダーウィンの進化論」を突きつけられた
  日本人とチャイナ人のアイデンティティは、根底から、ひっくり返るか >

 
 
 
先ほど「好事家の…」と申し上げたように、現在のネット上の論議は、科学的な知見からはかなり「先走ったもの」になっている、とは思うものの、しかし「築城の酷似」の原因は何だったか? という疑問を抱えた私としては、そこに突っ込んで行かざるをえないだろう、と感じております。

そして私なんぞが真っ先に注目しますのは、次のような見方です。

(ウィキペディア「ハプログループD (Y染色体)」より)

現在、このハプログループDは、日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、チベット高原で高頻度に観察されるほかは、アジア、アフリカの極めて限られた地域で散発的にしか見つかっていない。
チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2a-M55、アンダマン諸島ではD1a2b-Y34537が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月を経ている。

(中略)
D系統は東アジアにおける最古層のタイプと想定できるが、一つの説として東アジア及び東南アジアにO系統が広く流入したため、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったと考えられている。
 
 
ここに出て来る「O系統」とは「漢人・漢民族」に他なりませんので…
 

かの黄河文明(紀元前7000年~1600年)よりも、
はるか以前の、旧石器時代のアジアは、なんと
「縄文人」の祖先が席巻していた!?………


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その後に、O系統の「漢人」による侵入と駆逐があった、
と考えざるをえない状況が。

!!――― とどのつまり「チャイナ大陸」は、漢民族よりも先に、「縄文人」の直接の祖先たちが、広ーく、広ーく、住んでいたのだ……

という、驚天動地の科学的な知見が現れたようでありまして、ご覧の「漢人の侵入と駆逐」によって、どうしてこんなにズバッと鉈(なた)で断ち切るように、縄文人のY遺伝子を「東西」に分断できたか? という辺りが、これまた、スサマジイ話になりそうなのです。

篠田謙一(しのだ けんいち)著『日本人になった祖先たち』

その辺りを、国立科学博物館長の篠田先生は、ご覧の著書の中で、征服に成功した支配者層の父系DNAは、短時間で爆発的に増加する!…ことがあり、だから大陸においては(そういう理由で…)特定のY染色体ハプログループが拡大した一方で、日本では、縄文人のY染色体=D系統が多く残っていることから、縄文人と(その後に日本に流入した)弥生時代の集団は、平和のうちに共存したのだろう、との推測を語っておられます。

――― つまり、ありていに言えば、大陸では、漢人に征服された被支配層の男たちは、まったく自分の子供を作れなかった!…… のに対して、日本列島やチベット高原においては、歴史上、そんな野蛮な社会が現れたことは一度も無かった(※しかし今のチベットや新疆ウイグルはどうなのか?)ということなのでしょう。

(※※※ちなみに別の考え方として、例えば「縄文人」は、チベット高原から日本列島へ「海」を渡ってやって来た、との考え方も出て来るのかもしれませんが、それならば、どうして縄文人のY遺伝子が「渡海」ルート上の東南アジアにほとんど無いのか → そこをスルーしたのは何故? という点の説明がつきませんので、「渡海」説の矛盾はすぐに指摘できそうです)

と、ここまでの内容で、結論的に申し上げてみたいのは、日本とチベット周辺に共通した「築城の感覚」というのは、ひょっとすると、上記のごとき「漢人の侵入」に出くわした縄文人の祖先たちが、そこで会得した「防衛の感覚」だったのかもしれない――― と、大まじめに思うのですが、いかがでしょうか。


 
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1912年から1951年まで独立したチベット国家の「スノーライオン旗」


話は変わりますが、この「スノーライオン旗」を見るとき、独立の1912年という年に、ダライ・ラマ13世が採り入れた「東西の共通項」に目が行かざるをえません。

 

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