東の泊船亭は小亭=あづまやを締(むす)んで停泊中の大小の船のように。→家康好みの「複合」連結式天守のデザインへ

【 引き続きの、追記 】
えっ… 妻が5年前に殺人容疑で事情聴取されていて、その直後にナゼか捜査が縮小された!?木原誠二官房副長官。
文春側を告訴するぞと報道各社に通知(威圧)したが、下手をすれば木原本人が「脅迫罪」の現行犯、だとか。

 
【7月26日の追記】
法務大臣への指揮権をもつ官房副長官が「事実無根で人権救済を」だって!?
「何も無かったこと」にして「権力を維持したい」だけの木原誠二に、申したい。
人に助けを求めるなら、人への絶大な権力を手放してから、するべきでしょう。

Deputy Chief Cabinet Secretary Seiji Kihara’s wife was questioned on suspicion of murder five years ago, and for some reason the investigation was curtailed immediately after that.
And now, he, Kihara has notified (intimidated) the media companies that he will sue Bunshun Weekly, but if things go wrong, Kihara himself will become the red-handed offender of the “intimidation crime”.

(※※※いま日本は史上最高の税収にも関わらず、キシダ政権が「無限増税」へと突っ走るのは、この広島サミットを前に、キシダ&木原が、エマニュエル&バイデンと「ウクライナ復興支援20兆円の密約」をしてしまったからだ、という話がある。 しかもその原資として、潤沢な外貨準備金の取り崩しなどを財務省が拒否しているため、20兆円はすべて「増税+控除廃止」で ! ! ひねり出すつもりだ…とのウワサが流れたが、先日、その密約をバイデン老大統領が演説であっさりと認めている)
 

エマニュエル=木原ライン
悪の連鎖
The chain of evil



 
そしてなんと、話題の妻の父親は元警視庁警察官だとか。 事件当時は警部。 事件の現場は父親が所有していた住宅。 考えてみれば、自殺への偽装工作など、その道の専門家でないと、即座には出来ないでしょうし、ひょっとすると例のY氏は(父親の策略で)現場に呼び出された?とも考えられそう。

……………………。
時の総理大臣を(米国のエージェントのごとく)完ぺきにあやつる腹心の政治家が、妻の殺人事件を、自らの立場を使って捜査妨害し(※父親の元警察官も自民党幹部に相談、という合わせ技で)たった一か月で警視庁の再捜査を押さえ込み、もみ消していた!!…というのが本当なら、あの田中角栄のロッキード事件にも劣らぬ戦後最大級のスキャンダル事件でしょう。

木原の妻の報道を受けて、警察庁の露木康浩長官が「捜査は公正」と。

ところが、この露木長官、2018年の再捜査が「急に縮小した時」の警察庁刑事局長だった、と言うのですから、!!ッ…………………。
 
 
 
 
 
【 +余談。いや、半ば本題で 】
「傾城(けいせい)の美女」やハニートラップは人間の核心的テーマ…と信じている節があるチャイナ人について。
→ 写真は左から、長征(延安)時代の毛沢東、通信社特派員E・リーフ、紅軍の指揮官・朱徳、この頃の毛沢東の愛人 ! ! …呉莉莉 Lily Wu )


(※ご覧の彩色写真はサイト「Color by Klimbim 0.1」様からの引用です )

【ご参考2】→ 究極の悲劇的最期をとげた周恩来の養女・孫維世(そん いせい)=右と、周夫妻との写真

【ご参考3】
→ 孫維世の凌辱的かつ非道な惨殺を命じた、毛沢東の四番目の妻・江青(こう せい)。晩年は「四人組裁判」で死刑判決の後、減刑での仮釈放中に自殺した

――――! 当ブログは「城」がテーマですから、「傾城の美女」というチャイナ由来の熟語を検討することも、本題の内に含めていいのかもしれませんが、ひとまず余談的に申し上げますと、まず初めに「傾城の美女」は“英語に翻訳できるのか?”と思ってGoogle翻訳すると…
 
beauties of the castle
 
という空(うつ)ろな訳が出まして、ためしにDeepl翻訳でやると、
 
woman as pretty as a dame(=べっぴん、お嬢様のように美しい女性)
 
と出て、熟語が意図する着地点はやや反映できるものの、「傾城」の由来まで踏まえた翻訳にはならず、ひょっとすると英語圏には、クレオパトラのようにローマ軍の将軍を手玉に取る女性はいても、その美形のせいで城や国が滅びてしまう、というほどの感覚(=戦法)は無いのかもしれません。
 
傾城の美女(もしくは傾国の美女)とは、「元首が寵愛にかまけて政治をおろそかにした結果、その国が崩壊に至った女性をいう」というのが一応の定義のようで、そんな女性、実在したかと言えば、殷の妲己(だっき)とか、唐の楊貴妃(ようきひ)とか、何人か候補にあがるのがチャイナの怖いところでしょう。
 
そんな中でも、これぞ元祖にして「最強のハニートラップ」と思えてならないのが、チャイナ四大美女の筆頭にも挙げられる、春秋時代の越の美女「西施(せいし)」でしょう。




(※こんな美女役に選ばれた役者さんも大変だ、と思いきや……)

紀元前5世紀、春秋時代の「呉VS越」の激しい対立は、歴史書『呉越春秋』等に描かれましたが、一時は呉が越を滅亡寸前に追い詰め、越王の勾践はたまらず呉王の夫差に命乞いをし、夫差の馬小屋の番人になるといった屈辱を味わい、互いの復讐心は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の言葉を生んだほどでした。
 
そして22年後、今度は逆に、越が呉に猛反撃をし、都を陥落させて呉を滅亡(夫差の自殺)へと追いやりました。 ではその間、何があったのか、という局面で美女「西施」が出現したと『呉越春秋』は伝えています。
 
越王の勾践が、呉王の夫差のもとに献上した美女達の中に「西施」がいて、夫差は西施に夢中になり、王族からの「王は行いを改めないと、いずれ滅びるでしょう」との諫言も耳に入らず、やがて国は弱体化し、ついにライバル国に滅ぼされてしまった、というのですから、西施とは<敵対国に送り込まれたハニートラップの元祖>と言えそうです。
 
そんな歴史的な裏付け?があって、強力な破壊兵器としての美女という存在が、かなり「本気で」信じられている国がチャイナなのだ………という風に、認識を深めた方がいいのかもしれません。

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小亭を締(し)めて泊船と曰ふ。
(湘山得玄『江亭記』より)


 
 
< 東の泊船亭は小亭=あづまやを締(むす)んで停泊中の大小の船のように。
  → 家康好みの「複合」連結式天守のデザインへ >

 
 
 
さてさて、では前回に続きまして、太田道灌時代の江戸城「静勝軒」のうち、東側の建物か部屋として詩文にのこる「泊船亭」に注目してまいりましょう。

(村庵霊彦『同跋』より。読み下し文)

彼に楼観あれば、此に台榭(だいしゃ/台榭建築=高台式の建物)あり。 特に一軒を置いて、扁して静勝の軒という。 是を其の甲と為すなり。 亭を泊船と曰ふ。 斎を含雪と曰ふ。 各ゝ其の附庸(ふよう/付属)なり。

この村庵霊彦の詩の「各ゝ其の附庸(ふよう/付属)なり」に基づいて、上記の青文字のような配置=泊船亭と含雪斎は、静勝軒の左右に付属した建物、と当ブログでは考えた次第です。

で、その「含雪」「泊船」という名称はどこから来たものか、と申せば、唐代を代表する詩人・杜甫(とほ)の『絶句』から取ったと言われていて、この二つは杜甫の対句表現でもありましょうが、<<西と東で一対になった言葉である>>という点が、この上なく重要であろうと思われます。

絶句 杜甫
両箇黄鸝鳴翠柳
一行白鷺上青天
西嶺千秋
東呉萬里

現代語訳
二羽のうぐいすが緑の柳に鳴き
一列の白鷺が青い天に上っていく。
窓の向うには西嶺(せいれい)の万年雪が見え、
わが家の門のところには
東方の呉からはるか万里の旅をしてきた船が泊まっている。

この詩は、杜甫が、最晩年の漂流の旅にでる直前の、おだやかな数年間を過ごした場所=現在のチャイナ四川省の省都・成都市に草庵「杜甫草堂」をむすんだ頃の詩ですが、「含雪」「泊船」に該当する景観は、実は今でも(現代的なビル街はあるものの)基本的には変わっていない!…という点に驚かざるをえません。
 
 
【ご参考1】 含雪の景観
朝の日差しをあびる成都市。遠景の西方に広がるのが「西嶺雪山」
ひときわ高い雪山はさらに西方の、市中心部から西北西120kmの「四姑娘山(しくうにゃんざん)」。四姉妹に例えた四峰のうち、末娘が主峰で6250m。

!! これをご覧になって、どなたもが、ひときわ高い独立峰のような雪山こそ、太田道灌や禅僧らの意識としては間違いなく、我が国の「関東から眺めた富士山」に見立てた原典なのだろう、と思えてならないのでは。


(※市川駅前のアイ・リンクタウンの展望施設から)

 
【ご参考2】 泊船の景観
市の中心部を流れる「錦江」。ひときわ目立つ橋は安順楼橋(近年の再建)
(※遠景の四姑娘山は合成か? 方角的には間違っていないが…)

(再建前の安順楼橋 /1917年当時)

そして古来、街の真ん中を流れる錦江の安順楼橋のあたりが、錦江→岷江→長江とたどって遠い東の地(呉の揚州や南京など)へ向かう船の出航地だったとのことで、杜甫の詩の「門には泊す東呉万里の船」はここの描写に他ならないでしょう。

これを太田道灌の江戸で申せば、ご存じのとおり当時の江戸城は間近に海(日比谷入江)がせまっていましたから、川べりの出航地という意味では、城の東側の江戸湊から平川をさかのぼってすぐの「高橋」あたり(※現在の常磐橋の周辺)が該当するのかもしれません。

かつては船着き場もあった常磐橋(近年の修復後の現況。奥は日本銀行)


絵葉書に残る、かつての景観……
(石造りの常磐橋は明治10年1877年、日本銀行は明治19年1896年の創建)



(※ご覧の絵葉書2枚は、堀江幸司様のサイト「改訂版・江戸東京医史学散歩」からの引用です)

---! ということで、ここであえて私見を申せば、太田道灌は杜甫にあこがれて「含雪」「泊船」の名をつけた、というよりも、東西一対の景観の類似を思えば、むしろ「成都」=多くの日本人にとっては『三国志』の劉備がひらいた蜀(蜀漢)の都・成都の方に、より強い興味があったようにも見えます。

ですから、考えようによっては、杜甫の詩は一つの入り口であって、「含雪」「泊船」の名を一対で自らの城に使うことで、道灌は「江戸」を「成都」になぞらえたかったのではないのか!?… と私なんぞは強く感じてしまうのですが、いかがでしょう。
 
 
 
< それでは泊船亭の「亭」とは―――
  詩文の「小亭を締めて泊船と曰ふ」に反応した徳川家康主従は、
  停泊中の大小の船のように付櫓を連ねたデザインで、
  「家康好みの複合連結式天守」を考案したのかも。…… >

 
 

(岡崎城天守の復元CG / 三浦正幸先生の考証)


 太田道灌(1432-1486)と、徳川家康(1543-1616)

さて、ここでまた一つ、お詫びを申し上げるべきは、3月のブログ記事で部分的にご紹介した詩文のうち、
(湘山得玄『江亭記』)
城上に閒燕の室を置き、扁して静勝と曰う。 静勝とは蓋し(けだし/思うに)兵家の機密か。……
の詩文のちょっと先の方には、「泊船亭」に関する貴重な一文がありまして、ここで改めて、ご紹介をさせていただきたいのです。

(湘山得玄『江亭記』より)

… 旅船の泊する所は、青龍赤雀(=東と南)、舳艫(じくろ)相い銜(ふく)む(=船首と船尾が触れ合うほどに多くの船がいる)。 蘭棹桂漿、舸経舫緯、織るが如し。 而(しこう)して欵乃(あいだい=舟唄)の声断ゆるなきなり。 江情湖思、寔(まこと)に楽しいかな。 小亭を締(し)めて泊船と曰ふ。
 
 
これは道灌時代の江戸の、東と南にあった平川や日比谷入江にも、数多くの船が停泊していた情景を詠んだ部分であり、その最後には「小亭を締(し)めて泊船と曰ふ」と付け加えられていて、つまりこれは、小亭を締(むす)んで建てた「泊船亭」の様子は、まるで停泊中の居並ぶ船のようであった、という貴重な証言なのではないでしょうか。

そもそもアジアに広く普及した「亭」という建物は、壁のない“あづまや”が基本形のようで、また、いくつかの建物と接続して建てた例も多いらしく、そんな事例をいくつか挙げてみますと…
 

拙政園(蘇州/明代)の亭台楼閣「香洲」
(※仙人の島へと向かう船をイメージしていて、前方に平らな台、
その後ろに「亭」、続いて楼があり、その上に閣があるという構造)


豫園(上海市/清代)の「湖心亭」


トゥドゥック帝廟(ベトナム・フエ市/19世紀)の
亭=Dinh ディン。王の休息所とマリーナ



といったものだそうで、しかもご覧のとおり「亭」は(涼む目的もあってか)多くが水辺にある、というのが一般的なスタイルらしく、したがって「亭」と「水辺→船」とは、切っても切れない関係にある、と申し上げていいのでしょう。
 
 
【 今回の結論 】
 
以上のごとく、太田道灌時代の江戸城「泊船亭」というのは、さながら船着き場に大小の船が停泊している姿のように、開放的な「小亭」を連ねた建築であり、そこからはきっと東側や南側の水辺の風景が見えたに違いありません。
 
――― そしてそれを徳川家康は「複合連結式天守」として、自らの城に次々と再現して行ったのだ…… と申し上げてよいのではないでしょうか。

(※「泊船亭」の天守画イラストは、接続した「静勝軒」と一体の形でご覧いただく予定です)

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