気が早い? 複合連結式天守を考案する以前の、徳川家康自身の「天守」観を浜松城で妄想する

【 いよいよ世界が気づき始めた木原スキャンダル 】
この先、木原が海外に行けば(9月9日~10日にはニューデリーG20など)記者からの質問攻めに会うのは間違いないでしょう。
木原は日本の恥部(ちぶ) ! ! になりつつある……


(※写真はフィリピンegYolkTVでの報道)

 
日本の総理が頼りきる最側近(木原)が、もしかすると義理の父親が殺人犯で、妻もそれに関わっていて、自分はその再捜査を妨害していた、などという「疑惑」が持ち上がったのに、今だに最側近のまま!……だと。
 
海外の目からすれば、木原は、日本の恥部(ちぶ)という以上に、日本の病巣のありか(→ 政治の影響を受けやすい警察官僚の体質とか、「記者クラブ制度」で統制された大手新聞・テレビが、この件の報道でまるで役に立たない現状や、日本の「恥の文化」の劣化とか…)を分かりやすく体現した“アイコン”として扱われるのでしょう。
 
結局、木原が言い張る「事実無根」とは、「俺が事実無根と言えば総理官邸の中では事実無根になるんだよ」との断言でしょうし、現に、木原スキャンダルを少しでも扱った記者は、総理官邸の記者会見場に「出入り禁止になる」という、とんでもなく露骨で、前近代的な「言論統制」がキシダ官邸でまかり通っているとか。
 

 
【 追記 】 木原スキャンダルはその辺の刑事ドラマよりもドラマチックと言われて、大勢の日本人が週刊誌やネット情報に釘付けですが、こうなると『週刊文春』さん等は外国語版での情報発信ビジネスも始める時に来ているのかもしれません。
そこで当サイトも、このテーマに限って、『週刊文春』や個々のジャーナリストの独自サイトで知り得た「日本語情報」を、分かりやすい図解にして、パート1から4に分けて順次、海外の皆様にご覧いただこうと思います。 今回はパート1で、画面クリックで拡大版にもなります。

 

【 再追記 】 続いて「首から心臓に向けて刺すのは、世界では定番の殺し方。なのに日本の警察は……」というパート2です。



 
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【 + 驚愕の冒頭余談…/
まるで「天守」を蔑(ないがし)ろにしたい!?かの西股総生先生の発言。それでは「土の城」も、税金が使われるなら「バリアフリー化が絶対条件」で、よろしいわけですか 】

名古屋城天守の木造再建のエレベーター問題について、西股総生先生からとても信じ難い!(さながらLGBT問題にも通じるような)「わがまま?名古屋城木造天守の復元に、エレベーターを設置しても問題ない理由」や、「名古屋城天守がバリアフリー非対応で木造再建された場合の、最も危惧する問題」との主張がありました。
 
私は断固として、西股先生のようなお考えには反対ですし、建設するのはあくまでも「令和の再建天守」なのですから、結局、どうするかは、令和の世の名古屋市民の「多数」が<<どちらを望むか>>で決めるべきではありませんか。
 
なお令和の再建天守が、何百年か先に国宝になるかどうかは、「出来次第だ」と思います。
 
再建は市の起債で行うにしても、それが市民の「多数」が望まない、もしくは不満を抱え込んだままの「再建天守」ならば、断じて造らない方がいい、と考えますし、
私はすでに当ブログで、さっさと今のコンクリート天守を壊して、上に何も無くなった(石垣の積み直し等のメンテナンスもしっかり終えた)天守台を見上げて、すべての名古屋市民がじっと考える「意見集約の時間」を作った方がいい、と申し上げております。

で、例えば、こんな話は絶対に起きて欲しくないので、例え話でも本来は言いたくない話ですが、もし万が一、あの姫路城の大小天守が、突然の火事で全焼してしまった場合、即座に全姫路市民の総意として「直ちに木造再建」が決まっても、そこで左翼系の市議や市民が「税金を使うならエレベーターをつけろ」と言い出したら、どうするのでしょう。
 
いや、もう、いいかげんに、この論争の実態は「南京大虐殺は無かったと公言する河村たかし名古屋市長を追い落としたい、市民オンブズマンらの政治闘争なのだ」という原点を踏まえて、粛々と、住民投票などで決着させるべきと思うのですが。
 
……… 考えてもみて下さい。 沖縄の首里城正殿の「木造再建」は、どうして“そういう手段による妨害行為”が無いのでしょうか。 → 現在の沖縄県知事が、ガリガリの左翼に転向し、政治的な装いを変えた人だから、と思わざるをえません。 もしも逆(保守を貫き通す政治家)であったら大変だ!…という証拠は、近年、我々はさんざん見て来たではありませんか。

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最大の難関と思われる「静勝軒」そのもの、に取りかかる前に…

 
 
 
< 気が早い? 複合連結式天守を考案する以前の、
  徳川家康自身の「天守」観を浜松城で妄想する >

 
 

――― さて、突然ですが、正直に申しまして、ご覧のNHK大河『どうする家康』をほとんど観ていない(…というか、最初の頃に観ようとしたものの、観ていられなかった)私なんぞが、こんな話を持ち出すのはどうかと思うものの、
今月のJBpressに出ていた、真山知幸さんの寄稿<『どうする家康』諸説ある「築山殿・信康事件」で斬新な解釈を打ち出した背景>を見かけて、これは、現状の当ブログの内容にも関わる話だなぁ、と感じました。

(同寄稿より)

ドラマでは、築山殿が長年胸に秘めていた夢が語られる。 それは、戦をなくして、各戦国大名が手を取り合い、自分たちの土地ではとれないものを物々交換によって補い合い、平和的な外交を行うというもの。 同じ通貨を用いての経済圏の構想まで飛び出して、築山殿は家康らに頭を下げてこう言った。
「どうかわたくしたちと、同じ夢を見てくださいませ」

 
 
!!…… こんな突飛な「築山殿」をドラマで観たら、やはり私なんぞも、のけぞるしかないのでしょうが、ここで申し上げたいのはそういう人物像の是非ではなくて…
あろうことか、正室・築山殿と嫡男・信康を旧本拠地の岡崎に残したまま( ! ! )徳川家康が移り住んだ「浜松城」の築き方には、実は、<上記の「夢」とは180度・真逆の><織田信長による外圧を利用した><家康自身の冷徹かつ老獪な家内統治>がすでに表れているでしょう、とずっと感じて来たからです。

(※そこでご覧いただきたい下記の図解は、家康の頃の浜松城には「まだ天守は無かった」と目される中でも、便宜上、そこを「天守曲輪」と書かざるをえない点をご容赦ください)
 

【 年来の、私の手前勝手な妄想… 】
浜松城の天守曲輪というのは、実は、家康の時代には
<<信長を迎えるための御成り曲輪>>だったのではないのか?

その手前=東側の本丸こそ、家康自身の屋敷があった場所なのでは


(※ご覧の図解には、浜松市作成の徳川家康在城期=1570年代の推定復元CGを使わせて頂きました)

現状の天守曲輪には、2014年に復元の「天守門」などの再建建築が並び立つ

突然にこんなことを申しまして、またこいつはぁ……、とお感じのことでしょうが、この件については、実は当ブログのサイドメニュー「浜松城の天守台石垣を鑑賞する」を作った頃から、そういう疑念はうっすらと感じておりまして、いつか申し上げてみたいと思って来ました。

(※またこの件は、以前の記事で申し上げた「伊勢亀山城」で、石塁でがっちりと守られた本丸御殿が、上洛する三代将軍・徳川家光の宿舘に改修された、という話とも若干、似ているのかもしれません)

 
では、なぜ今この件を?という点で申せば、ここ何回かの記事で申し上げたように、家康があまりにも太田道灌に感化されっぱなしの印象が強くて、天守に限った話でも、当時、家康の周辺には、信長とか、明智光秀とか、豊臣秀吉とか、豊臣秀長とか、蒲生氏郷とか、特筆すべき天守を創り上げた人物がごろごろ居たわけなのに、どうして道灌だけ?…に感化されっぱなし、だったのか、ちょっと、のめり込み過ぎの感もあるようだからです。

ひょっとして、そこには何か家康の個人的な事情(=特異な「天守」観の変遷?)があったのかもしれない、とも感じますし、そのためには「まだ天守は無かった」と目される浜松城の様子でも分かれば、その一端が見えて来たりするのかもしれません。
――― といった観点で申しますと、天守そのものが無かったのなら、例えば例えば、かなり珍しい名称の「天守門」!の方に、解明のカギが隠れていたりはしないでしょうか。?……
 

【 私の最大の興味 】

発掘調査時の天守門跡PDF報告書「浜松城跡8次」ダウンロードからの引用写真)

さて、9年前に復元された「天守門」というのは、幕末の『安政元年 浜松城絵図』では、天守門のところに「梁二間 桁六間 天守門 壁所々潰」としっかりと(当時の地震の被災状況も含めて)墨書されていて、江戸時代にその名称が定着していたことは確実のようです。

ではいつから「天守門」の名はあったのか?と申せば、諸書の解説等では「江戸初期に浜松城の天守が焼失してからは、浜松城を象徴するシンボル的な存在であったといわれており」といった状況証拠が語られるばかりで、要は、この門を天守に見立てていた時代が長く続いたから……との“解釈”があるだけのようで、どうもはっきりしません。
 
 
ちなみに発掘調査の結果を踏まえれば、瓦などの出土物から、明治維新まであった天守門は、天守と同じ16世紀末=1590年からの堀尾吉晴・忠氏の時代(11年間)の建造と考えられるのだそうで、その時期に、石垣の上に瓦葺き建物、といった姿が一気に出来上がり、その後の江戸時代に何度かの改修があったらしい、とのことです。

調査では、門跡の周辺で「雨落ち溝」も発見されていて、私なんぞが想像しますに、復元された天守門が<<かなり軒の出の大きな櫓門>>として完成したのは、その「雨落ち溝」の位置を踏まえた上での設計なのでしょう、と推察しております。

そして発掘調査じたいは、そういう近世の遺物が出土した層までで発掘を止めたそうでして、その下については「さらに下位の層では、安土桃山時代から近世にわたる天守曲輪の遺構・遺物が遺存する可能性を指摘できる」と報告書にあり、家康の時代については、まだまだ分からないことだらけ、と言っていい状態のようなのです。

そこで……
 
 
 
< 当ブログの持論 = 最初期の天守は、
御主殿の屋根上の望楼部分だけを「天守」と呼んだのではなかったか?
との想定にしたがって、家康時代の「天守門」を妄想すれば…!! >

 
 

さてさて、何度もお目にかけた画像ですが、これがまたもや重要なカギになりそうで、何故なら、物理的に考えまして、天守門の「前身」の門は家康時代から必ずあったはずでしょうし、もし、それもまた「天守門」!?と呼ばれていたのなら…

【 ご参考 】 金石城の櫓門(1990年復元)

ご覧のように櫓門の上に望楼を載せた構造というのは、「最初期の天守は、御主殿の屋根上に上げた望楼部分だけを<天守>と呼んだのではなかったか?」と申し上げている当ブログの視点からすれば、まさに「天守門」と見えてなりません。

そこで、思い切って、家康時代の浜松城でも、同じ現象(造形)が信長のための御成り曲輪=天守曲輪の門で発生していたら―――との仮定によって、はめ込みのシミュレーション画像を作ってみました。


↓           ↓           ↓

(※ご覧の画像は、復元された天守門の<<かなり軒の出の大きな櫓門>>というデザインをひとまず踏襲しつつ、金石城の櫓門の構造や、土塁造りの曲輪の門であった、という各点を加味しながら描きました。
また門の「桐紋」は、浜松城築城の直前には、足利義昭を奉じて上洛した信長に対して、足利家の桐紋が与えられた、との史実がありますので、この門の「性格」を強調する意味であえて描き加えたものです)
 
 
で、仮にこのようにしてみますと、天守曲輪が信長の御成り曲輪であり、そういう城を築いてわざわざ移った家康の立場を思えば、「天守門」とは、<信長による外圧を利用した><家康自身の冷徹かつ老獪な家内統治>を行うための、大義名分の具象化(見える化!)というか、家中への檄文(げきぶん/ショック療法?)のようにも見えてまいります。

つまり、正室や嫡男を遠い西方の旧本拠地に残したままの、対武田の前進基地「浜松城」という、かなり特殊な城で起きた現象として「天守門」を考えてみるのも、けっこう面白いことなのかも……と申し上げてみたいわけです。

そして家康自身の心が、やはり世上で言われたように、当初は自らの天守建造に消極的だった原因としては、天主建築が信長その人に同一化した“恐れの対象”にしか見えなかったからでしょうし、
そういう状態から、豊臣政権下で関東に国替えになり、初めて<江戸城の太田道灌>を意識する立場になって、突如として、天守の有りように目覚めた!(初めて積極的に興味を持てた)のではなかったかと、改めて感じるのです。
 

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