含雪斎の「斎」は書斎の斎?……詩文上の華頭窓や移築銅櫓の銅瓦を踏まえれば、かの「富士見亭御文庫」の前身かも

【決定打。岸田のふくみ笑い】

もう、こんな人間の言うことを、日本人の、誰が信じますか。 いやそれ以前に、この人間の「声を」聞きたくない…… という感情が広がってます。
 
話題の「国民負担率」は、G7では、日本だけが急激に上がって来ている、とか。 ここからさらに“増税”&“控除廃止”をねらう、という“負担増大”男の「声」を聞くだけで、もう、バカバカしく感じるようになりました。

【 追記 】
えっ… 妻が5年前に殺人容疑で事情聴取されていて、その直後にナゼか捜査が縮小された? 木原官房副長官。
はぁ? ゴリ押しで大騒ぎのマイナカードは、実はマイナンバーが入っていないという…
いいかげんにしてくれよ、もう、この政権。………………………


 
※           ※           ※
 
※           ※           ※
 
※           ※           ※
 
(※3月の記事より /「含雪斎」を赤文字に変更)

では初めに、これまで各分野の先生方の研究でも、実像がなかなか焦点を結ばずに来た太田道灌時代の江戸城の「静勝軒」ですから、一つひとつ、慎重に片付けて行きたいと思うのですが、今回はまず、静勝軒の西にあった建物か部屋かの「含雪斎」に注目して行きます。

いくつかの【視点】から方向性を絞り込んで行き、最終的には(何を言っても一介のブロガーですから)思い切って結論を「天守画イラスト」にしてご覧いただこうと思うのです。!
 
 
【視点1】
「含雪」は静勝軒の西面の窓で、「含雪斎」はその窓から見えた西の建物か??

(万里集九『静勝軒銘詩並序』)
城営の中に燕室(えんしつ/休息室)あり。 静勝と曰ふ。 西を含雪となす。 重々の窓欞(そうれん/窓格子)を透貫して、戸に巧みに径三二尺の円竅(えんきょう)を鑿(うが)つ。 円竅の中、千万仭(じん/高さの単位)の富士を望む。

(湘山得玄『江亭記』)
城上に閒燕の室を置き、扁して静勝と曰う。 静勝とは蓋し(けだし/思うに)兵家の機密か。 其の西の簷(えん/ひさし)に当りては富士峯の雪あり。 天芙蓉を削りて以て玉立すること三万余丈。 その窓を含雪と曰うなり。

すでに3月の記事でご紹介のとおり、詩文に残る「含雪」(含雪斎)は富士山との関係で詠われましたが、具体的にどういう位置関係かと申せば、上記の二つの詩文からは、静勝軒の西面の窓を(杜甫の詩にちなんで)「含雪」と呼んだのは間違いないものの、窓格子や円竅(華頭窓)があった建物はどれか、と言えば、必ずしも明確ではないように思えてなりません。

そこで、一つの考え方として、「含雪」は静勝軒の西面の窓で、「含雪斎」とは、その窓から見えた西側の建物(=斎?)がそう呼ばれるようになったのかもしれず、そこに窓格子や円竅(華頭窓)があったのだ、という風にも読めると思うのですが、いかがでしょうか。
 
 
【視点2】 ならば「含雪斎」の「斎」とは何のことなのか?


(※ご覧の建物は、かつては山伏の参籠所だった、羽黒山の「斎館」)
 

(デジタル大辞泉より)
さい【斎〔齋〕】
1 神仏を祭るとき、心身を清める。ものいみ。「斎戒/潔斎」
2 祭事を行う。「斎主・斎場」
3 ものいみや読書などをする部屋。「山斎・書斎」
4 精進料理。僧の食事。とき。「斎食さいじき」

続いての疑問は、含雪斎の「斎」とは何だったのか、という件でしょうが、特に静勝軒の「軒」や泊船亭の「亭」との使い分けや位置づけを考えるうえでは、決しておろそかに出来ない疑問でしょう。

一般に「斎」と名のつく建物と言えば、まずは上記写真のような「斎館」「斎場」などの、「斎」を「いつく」と読んで、身を清める、悔い改める、といった意味で設けられた宗教関連のものが考えられます。

現に含雪斎には「華頭窓」があったとすれば、そういった種類の建物を考えることも可能なのかもしれませんが、しかし、ここで次の【視点3】の参考事例をご覧になれば、そうではなくて、含雪斎の「斎」とは書斎の「斎」だったのではないか――― との見方に大きく傾くはずです。
 
 
【視点3】 注目の参考事例 = 名古屋城の「迎涼閣」は、藩主の“書斎兼文庫”だった


(※明治初年の、名古屋城二の丸庭園の北西隅の様子。『金城温古録』によれば、
 手前の平屋が「御文庫」、その奥が「御土蔵」、一番奥の楼閣が「迎涼閣」)
(※ご覧の写真はNetwork2010様からの引用画像です)

『御城御庭絵図』(名古屋市蓬左文庫蔵)に描かれた「迎涼閣」

名古屋城二の丸の北西隅にあった「迎涼閣」は、数寄屋風の楼閣であり、二階の四方と一階の堀に面した北側に高欄を設けて、初代藩主の徳川義直が<書斎兼文庫>として使った、と伝わる建築です。
(※現在、これを二の丸庭園と共に復元する計画もあるとのこと…)

北の堀外から眺めた「迎涼閣」古写真

このような建築が、徳川家康の生きていた時代に、子の尾張藩の藩主のために<書斎兼文庫>として建てられた、という歴史的事実の前では、それならば、含雪斎の「斎」も「書斎の斎」であろう、と私なんぞは一気に意見が傾いてしまいます。
 
 
【視点4】<書斎兼文庫>の推進者は徳川家康、さらには太田道灌にも!さかのぼれる


(ご存知、江戸城の本丸内から眺めた「富士見櫓」)
 

ここで非常に重要なことは、この<書斎兼文庫>の推進者は徳川家康・本人であり、なおかつそれは太田道灌にもさかのぼれる!…という、新旧の江戸城の稀有(けう)な一致点に他ならないでしょう。

どういうことかと申しますと、関ヶ原合戦の翌々年の慶長7年、徳川家康は「馬上にて天下を取り、文をもって天下を治める」と述べて、まだ天下普請が始まっていない段階の!!江戸城の「富士見ノ亭」に文庫を設立し、金沢文庫などの書籍を移して「富士見亭御文庫」と名づけました。

この「富士見亭御文庫」の詳しい位置は、当時の富士見櫓がどうなっていたかも定かでない現状では、なんとも言いがたいのですが、徳川記念財団の説明ですと、まさに、当時の富士見櫓の中に設立した、と言い切っておられます。

そこで非常に、非常に興味ぶかいのは、家康の「文をもって天下を治める」との言葉の“出処(でどころ)”はどこだったか?と考えた場合、いやがおうにも、太田道灌の「静勝」の哲学や、漢籍・兵書・医書から勅撰和歌集におよぶ膨大な蔵書(数千箱分?)の存在を想わずにはいられないでしょう。

太田道灌(1432-1486)と、徳川家康(1543-1616)

道灌の「静勝」の哲学と申しますのは…

(電子版市民プレス 第60号「この人 太田道灌(その二)」より)

…「静勝」の二字は、兵書の尉繚子(うつりょうし)の秘密の計略の中に見える。 その言葉に「戦争は、静によって勝ち、国家は専らにすることによって勝つものだ」と言っている。
施子美の解釈では「兵法は、おごそかで静かなのが良い。おごそかで静かであれば、戦争に有利である。 それには権力によって、一つにまとまることが必要だ。 一つにまとまれば、国はその利益を得る。 おごそかで慎んでいる馬、悠々とした旗、これこそは、軍が静かだということだ。」と。

 
 
これはなんと、市民プレスからの引用ではありますが、昨年、安倍元総理を失ったなかで、これほど気持ちに沁(し)みる言葉もないのではないでしょうか。

(※引用文の「施子美」は宋代の軍学者です)

そして道灌の膨大な蔵書に関しては、小川剛生著『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』では…

(同書より)

道灌は他国者であり、十五世紀の東国動乱にあって、向背定まらぬ国人領主を心服させてその盟主となるには、単に武力ばかりでなく、文化の力が必要だった。 江戸歌壇の活動は、現在僅かな記録をとどめるばかりであるが、それにもかかわらず道灌その人への求心力を思い起こさせるよすがとなっている。

つまり「文をもって天下を治める」と言い切った家康は、自身が歌を詠むことは全く無かったものの、<書斎兼文庫>の件では、まさに道灌にならっていた可能性!を感じざるをえないわけで、さらに付け加えるなら、その際の「文庫」の建て方もいっそう興味ぶかいのです。

すなわち、大御所として駿府城に移った家康は、駿府城内にも「駿河文庫」を設立しましたが、そこの管理を林羅山に命じたところ、羅山は師の藤原惺窩に「この楼に登れば即ち帰ることを忘れ、日の将(まさ)に入らんとすることを知らざること有り。」などと書き送ったそうなのです。(※前出の徳川記念財団の説明より)

―――「この楼に登れば」!!
 
 
【視点5】 俄然(がぜん)興味がわく、谷文晁の「富士見櫓」の描き方

さてさて、当ブログでは、谷文晁が描いた「富士見櫓」こそ実は「含雪斎」だったのではないか、などと申し上げて来ましたが、今回はご覧の絵のうち、建物の細部の描き方に迫ってみたいと思います。
 

一階には「縁柱」が!→ 前出の名古屋城「迎涼閣」とも共通する。

このように「縁柱」が共通…ということは、この二つの建物はともに、構造的には土蔵に近かった「櫓」建築とは、本来は明らかに別物、と申し上げて良いのでしょう。

さらにネット上で見つけた、かの有名な四万温泉「積善館」の元禄時代の復元模型は、なんと…





(※ご存知のように、積善館は映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルになりました)



(※ご覧の写真はサイト「ゆことりっぷ」様からの引用 / 正面の玄関あたりが復元対象の部分)

【視点6】
 そして最後に、佐倉城に移築された「銅櫓」はそもそも何故、銅瓦葺きなのか?

佐倉城にあった「銅櫓」は、徳川家康が大老・土井利勝に対して、もとは静勝軒と伝わる富士見ノ亭を与え、それが利勝の居城・佐倉城に移築されたものと伝わります。

大竹正芳先生の研究によれば、ご覧の古写真のうち、てっぺんの撤去された状態の錣葺き(しころぶき)の上部屋根が「銅瓦」であり、それ以外は本瓦葺きと見られる、とのことですが、それでは何故、この銅櫓または前身の富士見ノ亭が「銅瓦葺き」だったのでしょうか?―――といった、そもそもの「疑問」には、どの文献にも直接の答えは無いようです。

そこで例えば、三代将軍・徳川家光の頃の江戸城では二の丸にあった「御文庫」もまた、銅瓦葺きの防火造りと言われますので、とどのつまり、富士見ノ亭(=もとは静勝軒のうちの含雪斎?)も<書斎兼文庫>であったからこそ、銅瓦が使われたのではありませんか……と私なんぞは申し上げたくなるのです。

(※また上記の古写真によって、二重目が4間四方との含雪斎の規模も、はっきりするのかもしれません)

では以上をもって、いよいよ、お約束の結論=新規イラストをご覧ください。

天守画イラスト <<太田道灌時代の江戸城「含雪斎」>>
(※南東側より / 道灌自身の銅板張りの書斎兼文庫として推定。
後の後北条時代は隅櫓に改装、そして江戸初期に佐倉城の銅櫓として移築・減築か)

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。