理屈で言えば、天下人の天守台は、自らの居所=本丸御殿から見て「低く」築くのが当然のはずで…

【どちらも中国(北京/新疆ウイグル)の 冷たい氷の上で 起きたこと】
 (※右写真は、両親とも収容所に連れ去られて一人になった子が、こういう姿で発見された、とのことです)

 

みなさんは、北京オリンピックのTV観戦を楽しめますか?? 
私は、この際、馬鹿のようにも見えましょうが、ニュース等を除いて、現地からの中継や録画の放送は 一切、観ないことに 決めました。………

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徳川家光 所用「縹絲威(はなだいとおどし)具足」/久能山東照宮博物館蔵

さて、ご覧の甲冑は、三代将軍 徳川家光の所用と伝わるもので、意外なほど 地味 というか、さっぱりとした 美しさを追求した甲冑であり、この “意外さ” の原因を考えてみますと、家光が日光東照宮をキンキラキンの黄金づくしで建て替えた業績との “落差” から来るのでしょう。

ですから、ひょっとすると家光自身は、初代の徳川家康=東照大権現との明確な差別化を自らに律していたのかもしれませんし、ここ何回かのブログ記事においても、そうした三代将軍 家光の審美眼(価値観)に関する、いくつかの「気になる点」が出て来ました。

――― そこで今回は、家光は何を思って自らの天守(江戸城 寛永度 天守)を建てたのか、との興味から、とりわけ「天守台の高さ」をめぐって、家光の前の二代将軍・徳川秀忠の「元和度天守」との比較をしながら(→ 新作イラスト)代々の天下人が理想とした「天守台のあり方」について申し上げてみたいと思うのです。
で、まずは…

(前々々回の記事より)

「ちなみに、家光自身は「天守台の石垣が城外から見えるのは宜しくない」との自分の好みを明言する人でしたから、天守台が天守台に見えなかったのは、もっけの幸いと言うか……」

さて、ご覧の文面は、前々々回に申し上げた家光の天守台の「好み」に関する部分でしたが、「天守台の石垣が城外から見えるのは宜しくない」ということは、とどのつまりは、模型写真の伊勢亀山城のごとく、本丸の一角に天守台を設けた(※豊臣秀吉が非常に好んだ)造り方を、全面否定したかったのだ (!) ということなのでしょう。

したがって、家光の好みで申せば、本丸内に完全に孤立した形の 独立式(単立式)か 複合式(梯立式)の天守しか 認めない、ということだったのでしょうし、そこには防備の観点や、豊臣風に対する政治的な拒否感や、整然とした層塔型天守へのこだわりもあったでしょうが、そう踏み出す「決め手」になったのは、前の二代将軍・徳川秀忠と側近・土井利勝との “ある合意” が、大きく影響したのではないか、と思えてならないのです。…

徳川秀忠 と 土井利勝

 
 
< 理屈で言えば、天下人の天守台は、自らの居所=本丸御殿から見て
 「低く」築くのが当然のはずで… >

 
 

【大前提のご参考】
豊臣秀吉の居城・肥前名護屋城 / 天守台跡の東南の隅角

本丸(右側)に面した石垣は、残存の高さが約3m。当時もかなり低かったはず。

ではここで、ご参考までに申せば、豊臣秀吉が今日に残した居城の天守台跡のうち、高さが推定できるのは、ここと石垣山城と山崎城(天王山城)くらいであり、どれも本丸側は非常に「低く」築かれていて、この様子は当然ながら、本丸の一角に天守台を設けたことで、

<< 城外には堅牢な高石垣を見せつけながらも、自らの居所(本丸御殿)からは、自分の天守を わざわざ 仰ぎ見ないで済む >>

という、極めて合理的な、配慮の結果なのでしょう。
 
 
それでは秀吉の前後の(天守全盛の時代における)天下人は、居城の天守台の高さについて、どういう判断をしたか、と申せば…

おなじみの角度ですが、伝本丸から見た安土城天主台

ご覧の安土城の天主台を築いた織田信長は、そもそも自身が天主の中に住んだと言うのですから、秀吉ほどには、天主台の高さに大きな関心(細かな配慮)を向ける必要は無かったはずで、ざっくりとした “見栄え” や技術的条件だけで高さを決めたのでしょう。

しかし(前述のごとく)自身が天守と本丸御殿を使い分けた秀吉は、そういうわけに行かなくなり、天下人たる自分が、自らの天守を「高い台」に載せてまで <わざわざ日常的に仰ぎ見る> というのは、ナンセンスの極みであって、本丸の一角に天守台を設けた「最大の動機」はこれだろうと思わざるをえません。
 
 
で、次の天下人・徳川家康もまた「同じ感覚」を持っていたはずだと、私なんぞは確信しておりまして、高さが10間と伝わる慶長度の江戸城天守台についても、「切石」と「常の石」を使い分けた動機に注目しますと、以下の図解のように、厳密な意味での天守台は「切石の高さ2間分だけ」? だったのではないでしょうか。



【ご参考】伏見城跡に残る天守台跡も、高さ2間半ほどの土壇でしかない

(※ご覧の図は 加藤次郎著『伏見桃山の文化史』より)

「切石の高さ2間分だけ」などと申し上げた根拠としては、まずは、ご覧の家康再建の伏見城の天守台が、非常に「低く」築かれた点が挙げられそうです。

また大御所時代の駿府城も、巨大な天守台は堀からの高さが11間などと言われるものの、ご承知のとおり、あそこはすべて「常の石」で築かれたことに、もっと注意を向けるべきだろうと思われてなりません。(→ つまりあれは厳密に分類すれば「天守曲輪」の部類?)

しかもその台上に、天守を二回り以上も小さく建てたわけですから、きっと家康自身が 天守台下の御殿から「天守を仰ぎ見る」シチュエーションというのは、実際は(上層階が見えるだけで)ほとんど出来なかったように思うのです。

※           ※           ※

【追記】<「名護屋」と「名古屋」の 大違い >
…… ちなみに、前出の本丸御殿側が「低い」肥前名護屋城に比べますと、尾張徳川家の名古屋城の天守台は、本丸御殿側も「高石垣」がそそり立っております。

これはきっと、天守じたいは江戸の徳川将軍(天下人)のものであり、尾張徳川家の当主にとっては “仰ぎ見るべき対象” だった傍証でしょうし、築城後まもなく 本丸には徳川義直のための御殿が造営されました。
 
 
 
< 天下人の天守は「もはや攻略目標などを示してはならない」。
  元和偃武 (げんなえんぶ) の世では、 天守のベクトル (方向性) は
  打ち消すべき、との意見で一致したのか―――
  徳川秀忠と 土井利勝コンビの 仮称「ステップバック天守」… >

 
 

さてさて、ここで是非とも(新基軸で)申し上げてみたいのが、秀忠と利勝の “ある合意”?の正体でして、ご覧の古河城や沼田城などの天守・御三階櫓は、どういうわけか、本丸の一角にあったにも関わらず、それまでの天守(台)とは違い、土塁や石垣の縁のぎりぎりに建てずに、一歩二歩、本丸内に下がった(=ステップバックした)位置に建てられました。

そのため、土塁の状況によっては、天守の半分ほどが土塁の内側にはみ出て、本丸地面に直に建つほどでしたが、従来、この手法の意図については、ほとんど言及が無かったものの、これは、ひょっとすると、ブログ冒頭の家光の「天守台の石垣が城外から見えるのは宜しくない」との発言と、つなげて考えるべきテーマ だったのではないでしょうか。!…

すなわち、これらの天守がなぜ一歩二歩下がる形(ステップバック)だったのか、と考えますと、例えば上記の沼田城の城絵図では、左側に描かれた三重櫓はそんな描写にはなっておらず、周囲に多少の空きがありそうですが、ごく普通の櫓台石垣で描かれています。

天守も、単に台上に空地のある形式ならば、三重櫓に似た描写になったはず

そしてこの沼田城はご覧の本丸東面は石垣造りと言われますから、決して「土塁だからステップバック…ということではなかった」と言えましょうし、結局のところ、古河城や沼田城などは、天守や御三階櫓だけに限定された、何か「特殊な作法」が施されたのだ、という風に考えざるをえないのではないでしょうか。

しかも、土井利勝が初めて大領を与えられた佐倉城の発掘調査でも、やはり2間程度、ステップバックして建てられたと推定されていて、「特殊な作法」はある程度、時期が限定できるものかもしれません。

――― そこで今回の記事では、思い切って、二代将軍・徳川秀忠と側近・土井利勝コンビによる <<仮称「ステップバック天守」群>> というものを、あえて想定してみたいと思うわけでして、そう考えることで色々な現象が説明できるようです。

仮称「ステップバック天守」の分布状態の試案

仮にこのような分布で考えますと、建造時期は沼田城(慶長12年か)、佐倉城(慶長15年)、横須賀城(慶長年間)、江戸城の元和度天守(元和8年)、古河城(寛永10年)、川越城(寛永16年)となり、沼田城天守が最初になるのですが、やはりこの天守の建造時期には疑問があり、本来的には土井利勝の「佐倉城」が最初だったように思えてなりません。

何故なら、これらの時期は、土井利勝が幕閣で活躍した期間にすっぽりと納まりますし、利勝の「城郭政策」と言えば、かつて井上宗和先生が『正保城絵図顛末(てんまつ)』の中で指摘した、利勝が死の真際(寛永21年)に将軍 家光にあてて書いた書状の話が、思い出されるからです。

(同論考より)

家光に宛てた書状の内容は、はじめに家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕えた利勝が、家光のとき ついに大老という最高の役職に昇進、古河十六万石の太守となった御礼が述べられていたが、その後に政治上の献策があった。
(中略)
大名に領国、居城などすべて 将軍からの預りもの なることを さらに知らしめるため、それぞれの領国の図面、御城絵図、領国の石高、人口の詳細を出させることこそ緊急の要事にて……」と ことこまかに記されていた。
(中略)
寛永二十一年は十二月をもって 正保 と改元された。
 
 
――― ということで、おなじみの「正保城絵図」は、利勝が献策した大名統制の一環であり、要は「城は将軍からの預りもの」という考え方を推進するものでしたが、この時期、諸大名の居城では、本丸を将軍の御成り用とし、城主は二ノ丸等に居所をうつすことが大々的に行なわれました。

そんな中で、どうして仮称「ステップバック天守」の話になるのか!? と申せば、本丸が天下人のものになると、“秀吉好み” の本丸の一角に天守台を(強調して!)設ける手法のままでは―――

佐倉城の場合(大正時代の「佐倉御城実測図」をもとに)

という風に、多くの場合、天守は、城主がうつり住む二ノ丸等から見れば、本丸の「反対側」に位置したケースも多かったため、あたかも将軍(天下人)が、城主の反対側に「顔を向けている」! ! ような印象になってしまい、家臣や領民の見た目も悪く、統治の都合上、問題になる と思われたのではないでしょうか。

これは、当ブログで ずっと申し上げて来た「織豊期の天守のベクトル」というメカニズム(※当時の天守は 次の攻略目標を示していた)がもたらした問題と思われ、この新たな問題を回避するため、天守のベクトルを打ち消すアイデアとして、<<仮称「ステップバック天守」>> が土井利勝から(上記の政策とともに)提起され、それに対して時の将軍・秀忠も、大いに賛同したのではなかったか…… と想像しているのです。



【前回記事のおさらい】
元和度の「低い」天守台についての当ブログの推定
昨年初夏の記事より)

では最後に、秀忠の江戸城 元和度 天守に焦点をしぼって申しますと、本丸西側の高石垣から一歩二歩下がった位置に、大天守台はあったはず、と考えておりまして、上の略画イラストに該当するあたりの「現状」を確認しておきますと…

西桔橋門跡の右側の石垣が「二段」になっていて、当時の城絵図と違うものの…


黄色い円内など、後世の積み直し部分も多いようで、やはり当時は「一段」か


↓           ↓           ↓

(「天守画」江戸城 元和度 天守 )

――― となりまして、ご覧のような仮称「ステップバック天守」こそ、この後に、本丸内に完全に孤立する 独立式(単立式)や 複合式(梯立式)の天守の普及につながる「ゆりかご」とも、「踏み台」とも 評すべき存在なのかもしれず、天守の歴史における 貴重な “ミッシングリンク” だったのでは!?… とさえ、思えて来ております。

天守画イラストに描いた「建物」のご説明については、寛永度との比較を含めて、また次回に、たっぷりとさせていただこうと思うのですが、ここで家光の「好み」に関して一言だけ申せば、将軍就任の際に、家康ゆかりの「非常に低い」「孤立した」再建伏見城の天守台(=前出の縄張り図)を、きっと、自らの目で見たことも、大切なポイントだったのかもしれません。…

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