仮称「ステップバック天守」よりも派手?地味? 家光の寛永度天守は黒塗りに金、という秀吉流の配色にもどったのか

<< … 前回から引き続きの 一言 >>
 
【どちらも中国(北京/新疆ウイグル)の 冷たい氷の上で 起きたこと】

 (※右写真は、両親とも収容所に連れ去られて一人になった子が、こういう姿で発見された、とのことです)
 

思いますに…
人権侵害国の 政府 が関与したコンテンツを、無批判に放送するTV局は、
強制労働による新疆「綿」を使った衣料メーカーと、 同じである、 と
見なされる時代が、もう 来ているように 感じますが……


 
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それにしても、子供に “ちょうどいい” アベノマスクの「廃棄」を決めた岸田総理は、
先見の明が無い、というか、第6波に まん然と構えていた事は 明らかでしょう。……

 
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【 で、まずは 画像に関する お詫びから――― 】

前々回からご覧の「天守画」イラストは、アップした当初は、大天守の破風の「赤銅色」がうまく表現できておらず、特に 赤が強く出るパソコン画面等では 真っ赤っ赤に見えてしまいまして、その直後に、色を改めておりますので、ご報告します。→ ご覧の破風妻は「銅板造り」のつもりです。

(「天守画」江戸城 元和度 天守 )

さて、今回はご覧の「建物」について申し上げたく、とりわけ二代将軍 徳川秀忠の「元和度天守」と、三代将軍 徳川家光の「寛永度天守」を比べますと、指図(図面)上のちょっとした差異が、立体では非常に大きな違いになって際立ちまして、結局、元和度と寛永度が “同型の天守” という見方は、なかなか受け入れられません。…

【ご参考】7年前の記事より
(→ 下図に「色彩」が加われば、さらに激変!…)

(※これは左の都立中央図書館蔵『江府御天守図百分之一』を寛永度天守として、
右の中井家蔵『江戸御天守』を元和度天守、と想定した場合の比較図です)

 

<< 今回の論点 その1 >>
 Q.元和度天守の 異様に高い最上階の「軒高」は、何のためなのか

では、ご覧のごとく秀忠の元和度天守を、中井家蔵の指図『江戸御天守』をもとに(指図そのままに)立体化してみますと、各誌のCG等で紹介される「寛永度とほぼ同型」といった復元像とは、かなり異なったイメージにならざるをえません。

昨年夏の記事より / 土蔵造り?の初重は、低い天守台の「穴蔵代わり」か )

そもそも、ご覧のような疑問も生じる初重は、家光の発言から逆算した「低い天守台」にぴったりと合致したことでしょうし、それは意外にも、佐倉城天守(仮称「ステップバック天守」)の半分が本丸地面に建つ姿とも、近い印象だったと思われるのですが、それにも増して、最上階の軒高の “異様さ” は見逃せないでしょう。

(内藤昌『城の日本史』より)

(中井家の指図の天守は)特に五層大屋根の軒出少なく、しかもこの軒高が四層以下の逓減(ていげん)率からすると高く、概して安定感にとぼしいところに特質がある。

両図を左右に接して並べますと、まるで左の寛永度天守は「最上階が寸詰まり」のごとく見えてしまうほどで、これほどの違いは、きっと当時の人々にも分かったはずで、これだけ窓上の小壁が広ければ、ここに “何か” を掲げるつもりだったのか?? とさえ感じるのですが、しかし、これは ひょっとすると……


↓           ↓           ↓
有名な「雪をかぶった富士山のよう」という、初代 徳川家康の
慶長度天守の印象を “踏襲する” ねらいだったのかも!?――


という風にも見えて来まして、このことは言わば、中井家の指図に元々そなわっていた造形上の大注目点なのですから、かつてこの指図を「慶長度天守」に見立てた宮上茂隆先生の解釈もふくめて、よくよく考えてみるべきテーマなのかもしれません。…
 
 
で、こんな風にあえて申し上げるのも、実は、元和度天守が当サイトのとおりであれば、そこは、初代の徳川家康の慶長度天守の「見え方」をも、大いに意識してい可能性がありそうだからです。

家康の慶長度天守に勝るとも劣らない「ベストポジション」の元和度天守
(※内藤昌先生の「江戸城本丸図」を当てはめてみたシミュレーションで)

ご承知のごとく元和度の本丸御殿は図面類が残っておらず、不明ですので、仮に、寛永17年頃の本丸御殿を推定した内藤先生の作図を当てはめてみますと、元和度天守は 家康の天守に勝るとも劣らない “ベストポジション” を維持していたことになります。

ちなみに、左端の「御守殿」というのは、もちろん将軍の正室・御台所(みだいどころ)の居所であり、つまり元和度天守は御台所の 目の前に建っていた、という風にも言えそうで、そんな位置関係は天守画イラストに反映してあります。

一方、寛永度天守は、将軍や正室の居所からは「大きな屋根越し」でしか見えなくなった!

そして、非常に重要なポイントと言わざるをえないのが、元和度の絶妙な位置に比べて、寛永度では劇的な落差が生じていた可能性でありまして、三代将軍 家光は、普段の生活の中では、自らの天守を まともに見る機会が ほとんど無くなっていた (!) はずで、これは前回記事の「天下人の天守台の高さ」の観点で申せば、それまでの天下人とは “別次元” のごとき境遇でしょう。

ですから、ちょっとキツい言い方で申せば、寛永度天守とは「城下からの見栄えが第一であって、本丸の北端にとりあえず、あれば良かった…」「将軍自身は見る機会もほとんど無く、ほったらかしに近い状態」だったのかもしれません。(※本人でさえ、やたらに登れる建物ではないのですから)!

――― で、これこそが、逆に、寛永度の「高い」高さ7間の天守台が生まれた原因なのでは?? と私なんぞは感じておりまして、御守殿や長局の高い屋根を相殺(そうさい)して、差し引きゼロに近づけ、将軍に 少しでも 新天守を眺めてもらうための、家臣らの “苦肉の策” だったのではないのか… という気がしております。(→ やはり7間の石垣高は、家光の本意ではなかった?)
 
 
と、まぁ、以上のような事柄で、元和度天守と寛永度天守は けっこう違った位置づけの建物かもしれない… と思えて来ましょうが、それは「色彩」を含めますと、さらに激変します。
 
 
<< 今回の論点 その2 >>
Q.仮称「ステップバック天守」よりも 派手? 地味?
  家光の寛永度天守は黒塗りに金、という秀吉流の配色にもどったのか

さてさて、昨年から皇居東御苑の旧本丸内で、江戸城 寛永度 天守の1/30模型の常設展示が始まりましたが、この模型を、冒頭の天守画イラストと同じように「北西」からの角度で見ますと…


(※ご覧の写真は、合成加工によって、手前の「手すり」等を消してあります)

ご覧の模型の色づかいは、従来の諸先生方の解釈に沿ったものと言えましょうが、近年では、おなじみの三浦正幸先生が、銅瓦葺きの屋根も 壁面と同じ「ちゃん塗り」がされていて黒かったのでは?――― との説をとなえておられ、それに呼応した模型やCGの製作もあって 注目されました。

そこで、ひとつ試しに、当ブログも、上記の1/30模型の写真をもとに、画像処理で 同じ事を してみたいと思い立ちまして、ただし…

<1> 屋根の棟などの金箔の使い方は、日光東照宮ではなく、むしろ輪王寺大猷院のやや控えめな使い方を参考にしつつ、
 
<2> 有名な「江戸天下祭図屏風」では、軒瓦に金箔瓦を使ったのは最上階の屋根だけ、という風に “かなり強調して” 描かれたことを思い起こし、軒瓦はそのように考えますと…

↓           ↓           ↓

!!――― ご覧のごとく、実にスタイリッシュな建物になるのですが、これではもう、伏見城天守などの「豊臣秀吉流の黒塗りに金」という天守の配色にもどったかのようで、こうなると、さすがに、家光には何らかの「意図」があったのか!?(→ 秀吉流への拒否感は無かったのか?)と考えざるをえないレベルのようで、ちょっと心配になってまいります。…

そして一方、絵画史料の中には、江戸城天守を「赤い屋根」として描いた史料 = すなわち銅瓦の「赤銅色」は最初から見えていた、と思わざるをえない屏風絵や再建用の計画図が存在しているのですから、家光の天守が、秀吉流の配色にもどった、と一気に考えるのは、ちょっと難しいような気もいたします。

【ご参考】個人蔵「東海道五十三次図屏風」の江戸と品川

また、この際ですから、もう一歩 二歩、史料に基づいた訂正点や分析も加えて、再度、模型写真を画像処理し直すことにいたしますと…

【訂正点】
元和度・寛永度の天守は、千鳥破風の「下り棟」は無かったのではないのか?


(※ご覧の「江都城御天守図」は国立国会図書館デジタルコレクション からの引用です)

【 分 析 】
五重目のてっぺんの棟瓦のみ「金箔瓦」で統一した絵画史料が 複数ある

→「ちゃん塗り」は葺き下ろし屋根の隅棟など?


↓           ↓           ↓

という風になりまして、こちらの方が、諸史料に合致した配色であろう、と思えるのですが、しかし現状では、どちらが正解―――と断定できるほどの根拠はございませんので、この場では「両論併記」とさせていただくことにします。

 
 
< むしろ「地味」でありたい、と願っていたのかもしれない、家光の深意 >
 
 
 
……… 以上のごとく見てまいりますと、家光の寛永度天守というのは、一般に「同型」と見られがちな元和度天守とは、かなり違った位置づけの建物であって、三代の天守の中では、意外にも、いちばん「地味な」天守でありたい!… と家光自身は願っていた節があるように感じます。

それは例えば、少なくとも「雪をかぶった富士山のよう」でありたい、といった感覚は「ゼロ」だと言わざるをえないのでしょうから。

 

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