再建大坂城――高い天守台や本丸御殿の「位置」から感じる「大坂幕府」説へのためらい

【冒頭余談】
「ルール破りこそ大物の証明」という信じがたい価値観の果てに…
すでに「金欠」に陥 (おちい) っている 中国 。

(※下記グラフは主要国名目GDP / 単位は兆米ドル)
 

→ → ご覧のとおり、バブル崩壊直後までは歩調を合わせた日米の その後の格差 にも驚きますが、2008年からの中国GDPの驚異的な成長を支えた「中国の各地方政府が抱える巨額債務」の半分は、「融資平台」LGFV = お手盛りの民間投資会社( … 民間 ! ! )から調達していた、という驚愕(きょうがく)のカラクリが。
 
これを知ると、中国GDP成長率の細かい上げ下げ(→ ましてや 中国GDPがアメリカを追い抜く 云々の「見せかけ演出」)を聞かされるのが、まるで バカバカしくなります。
 
…… であれば、ひょっとして、人民解放軍の軍備大増強や、公安当局のデジタル監視なども、それぞれ自前の「融資平台」から バブリーな巨額資金を得て、成り立っていたり、とか!?

 
(※ご参考 → 嘉悦大学の徐一睿先生(現在は専修大学教授)の「融資平台」をめぐる解説 など)

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そして、ロシア(又はベラルーシ)のウクライナ進攻があれば、「ドル決済の禁止」というロシア企業(と取引先…)に大打撃を与える制裁が言われましたが、これこそ、中国の台湾進攻に対する、アメリカの <<予行演習 or 見せしめ>> なのでは?… 現にバイデン政権はこれをやりたがっている節も。

【 追 記 】
開戦当日の夜にモスクワで起きた反戦デモ(横断幕は「ウクライナ 平和、ロシア 自由」)

 
→ → → ついに「ウクライナ政府は 薬物中毒だ」などと言い出した プーチン。 先日のマクロン大統領も、「プーチンは以前と別人のようだ」と証言していて、こうなると、プーチンの精神状態(=極度の被害妄想?)こそ、世界にとって 緊急の 検証課題なのでは……

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一昨年7年前の記事から / 埋め立て直後の 天守台築造が いかに危ういか? )

(『自得公済美録』/元和8年5月28日付の若林孫右衛門の書状より)

一 長晟(ながあきら)様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、下へ五間堀入候ても未堅土ニ成申候、長晟様外聞實儀、御機嫌も悪敷御座候
 
 
――― さて、上の略図は何度かお見せしたものですが、今回の話題にとっても、大切な事柄を含んでいるようなので、改めてご覧に入れました。

と申しますのも、このように江戸城の元和度天守台の築造において、浅野家の普請場=大天守台だけ が「地盤に」予想外の問題を生じていた、との記録は、その2年前の本丸北部の大規模な「埋め立て」によるものだったとしますと、そんな経験はきっと、徳川幕府が(一拍遅れで)ほぼ同時並行的に行っていた あの築城(再建)工事にも 大きな影響を及ぼしたはず… と思えてならないからです。

上空から見た大阪城
(※ご覧の空撮写真は、サイト「飛行機と写真」様からの引用です)

もう世間でも良く知られたように、現状の大阪城は、豊臣氏の滅亡後に、幕府の天下普請で城を大規模に修築(「埋め殺し」とも…)したもので、その工事は、まず元和6~8年に本丸の破却や二ノ丸の西・北・東部分などの石垣工事(第一期)があり、次いで寛永元年に、本丸の石垣工事と天守台再築(第二期/ただし御殿や天守の完成は寛永3年)があって、結局、本丸は 破却→埋め立て→石垣工事→建物の作事と、急ピッチで一連の作業が進められました。

高さ7間2尺との文献記録がある天守台石垣と復興天守(登閣口は右奥の向こう側)

(※ご承知のとおり台上の復興天守は、幕末の戦火で城内が全焼したのちに、
昭和6年、残存の天守台上に鉄骨鉄筋コンクリート造で「再々建」されたもの)

 
 
< 再建大坂城―― 高い天守台や 本丸御殿の「位置」から感じる
 「大坂幕府」説へのためらい >

 
 
 
では、そうした豊臣時代と徳川再建後の大坂城が <どう物理的に重なっていたか?> という図解については、かつて宮上茂隆先生による二つの時代をダブらせた復元図があり、またその後も、三浦正幸先生による豊臣時代の復元図を使った図解がありました。

ただし、それらは最終的なダブリの仕方が「豊臣時代の」御殿や天守を見やすく明示する形であって、「徳川再建後の」御殿等を見やすくしたものは、ほとんど無かったように思いますので、今回、以下のごとく(伝来の城絵図と三浦先生の復元図を使わせていただきながら)独自に作ってみました。

(左:大坂御城御本丸并御殿絵図 / 右:三浦先生の復元図をもとに作成)

↓       ↓       ↓
 

絶対に「沈下」の恐れがない地点に 天守台 を築いたものの、
本丸御殿 の方は……

――― ご覧の図解は、ダブリの片方が伝来の城絵図のままですから、厳密でない部分も多々ありましょうが、おおよその状況は理解でき、新たな天守台が「絶対に沈下の恐れがない地点に」築かれたことは明白でしょう。

その一方で、実に対照的なのが、本丸御殿 でありまして、思わず「宇都宮の釣り天井か!…」と言いたくなるような場所(大規模な埋め立て地の真上)をわざわざ選んで? 造営がなされたみたいで、こんな状況を見て、うっすらと “悪意のごときもの” を感じてしまうのは、私の気の回し過ぎでしょうか。…

【 現 状 】写真の中央部分の石垣が、埋め立てられた箇所にあたる

埋め立ての深さは、実に 30m前後には達したはずで、こんな埋め立ての3年後に本丸御殿が完成した、ということは、ほとんど間を置かずに 御殿の作事が続いたことになりましょうから、そこで念のため、もっと早い時期に埋め立てがあった可能性もチェックしておきますと…

毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』

ご覧の絵図は、ご承知のとおり元和6~8年の第一期工事において、二ノ丸の西・北・東部分の石垣工事を諸大名に分担させた様子を示したもので、この時点でも、本丸の構造は(破却があっても)基本は “豊臣時代のまま” であり、問題の埋め立て箇所も、破却した土砂が流れ込む程度だったのではないでしょうか。

ということは、やはり本丸御殿は、2~4年前までは深さ30mの堀であった場所に完成したと考えざるをえず、冒頭の江戸城の件からも、幕閣の面々は、沈下の可能性も承知のうえで、あえてそこに本丸御殿を造営したのだ… という風に思えて来てなりません。
 
 
――― そこで、まことに心配になるのが、かの小堀遠州が義父の藤堂高虎に宛てた書状から、近年、大きな話題になった「大坂幕府」説 なのです。…
 

問題の書状の「大坂ハゆくゆくハ御居城にも」との文言(拡大)→ 真ん中あたり

 
 
< 書状は、差出人も、受取り人も、再建工事を主導したメンバー同士。
  しかも書状の日付は 寛永3年12月17日 という、
  地盤沈下しかねない本丸御殿の完成と 同時期の 書状である、
  という “気味の悪さ” … >

 
 
 
やはり 宇都宮の釣り天井か!… などと、またまた “謀略” のにおいを感じ取ってしまうのは、私の悪いクセでしょうが、当サイトは 小堀遠州と再建大坂城の天守との関係には注目して来ていて、ひとまず、遠州の書状が巻き起こした「論議」のいきさつを、ザッとふり返っておきますと…

問題の書状は、伏見奉行として京都にいた遠州が、江戸に詰めていた義父の藤堂高虎に宛てて、天皇家への祝儀等々を報告した書状であり、その中で、自らが担当した再建大坂城の「造園」についても相談していて、その中で、
「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候間、此度御進上被成よく候ハんかと存候」
すなわち「大坂城はゆくゆくは(将軍の)御居城にもなさるべき所なので、その庭に藤堂家の庭石を献上してはどうか」とすすめていて、この一文から、かねてから指摘のあった「大坂幕府」構想をめぐって、ふたたび論議が巻き起った、というものでした。

しかし、しかし、書状の日付はなんと、寛永3年の年末という 実に “微妙な” 時期でありまして、これを受け取った藤堂高虎も、第一期工事の前年に二代将軍・徳川秀忠とともに大坂を訪れて、現地で縄張りの構想を練った当事者であり、「石垣や堀の深さを旧城の二倍に」との秀忠の要望を直に聞いた当人なのですから、30m埋め立ての真上に御殿、等々の事情については、百も承知の立場だったと言わざるをえません。
 
 
で、2019年に問題の書状を展示した大阪城天守閣では、その現代語訳 を公式HPにのせておられ、すでにご覧の方も多いことと思いますが、一部を抜粋して引用させていただきますと…

(大阪城天守閣HPの現代語訳より)

一、来年、相国様(太政大臣徳川秀忠)が御上洛されるかのような風聞があります。そのようなことがあるのならお知らせください。
一、大坂城に数寄屋(茶室)を完成させ、露地(茶庭)の造園なども拙者によく命じておくようにと(秀忠の)御意があった旨、先日、永井信濃守(尚政。秀忠付きの年寄〈のちの老中〉)から申して来ました。ずっと申し上げてきましたとおり、あなた様の京都の露地の石鉢と前石(石燈籠の前にすえる石)をご進上されるのがよろしいのではないかと存じます。

(中略)
大坂は、将来的には(秀忠そして将軍の)御居城にもなさるはずのところですので、このたび(石鉢と前石を)進上されるのがよいかと存じます。
(中略)
一、拙者もこのところひどい病気で、いまも食欲がなく困っております。しかし大坂城の建築の御用があるので大坂へ行き、昨日戻ってきました。
 
 
といった現代語訳を見れば、なるほど、遠州が関わった「再建大坂城」とは、将来的には大御所や将軍の居城(=幕府)になるはずの城であると、かなり前のめりであった様子は分かるものの、気になるのは、遠州も高虎も「相国様」秀忠との信頼関係から「再建」に取り組んでいたことと、もうひとつ、気になるのが―――

「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候」という文面の「ゆくゆくは」とは、どういうことか? に重点を置いて読めば、
<<(地盤が固まるまで)当面の何年間かは、別の誰かの居城になる可能性もありうる >>
という風にも、読めてしまう、わけで。 ! ! ………
 

さて、当サイトはご覧の人物、三代将軍・徳川家光の弟、徳川忠長 について 何度となく 取り上げて来ましたが、この人が「駿河大納言」と呼ばれ始めたのは、駿・遠・甲の計55万石を領して駿府城主になった寛永元年ごろから、という点は、妙な符号を示していて気になります。

さらにその頃の事なのか、父・秀忠に向けて「100万石を賜るか、大坂城をいただきたい」と嘆願した、という有名な話もあり、ただしこれは同時代の一次史料ではなくて、江戸中期の言行録『寛永小説(かんえいのしょうせつ)』( 林鳳岡/享保3年)に書かれたものらしく、いまひとつ信用が無いものの、しかし、ちょっと計算してみれば…

 (※豊臣秀頼の石高が60万石とも65万石とも言われますから)
  55万石+60万石=115万石

といった皮算用も、無くは無さそうでして、もしも嘆願の厳密な内容が「どこかに100万石で国替えか、現状のうえに大坂を加増して欲しい」であったとすれば、勘定は、それなりに合っていたのかもしれません。!…

ですから、「ゆくゆくは」大坂幕府の話に信ぴょう性があったとしても、それと同時並行で、秀忠の三男の忠長が「領国の一部」として「大坂」を欲している、などという話が 強引に割り込んで来ていたのなら、再建工事を担った高虎や遠州らとしては、実に複眼的な(=転んでもただでは起きない)アプローチが求められたのではなかったでしょうか。

ということで―――
 
 
【 深 ー い 妄 想 … 】
 
絶対に沈下の恐れがない地点に築かれた高い(=重い)天守台と、沈下の可能性もありえた場所に造営された本丸御殿。→ ひときわ高い天守台は(実は名古屋城と同様に)言わば…



幕府による、城主=徳川忠長「監視用(威圧用)」の天守台であったのかも。

 

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