最大の難関「静勝軒」は正攻法では答えが無限。どうであれば「――軒」と名付けたくなったか?という逆算へ

【キシダフミオは我が国の憲政史上、最低のさらに下の、マイナス総理であると判明しました】

義理の父親が殺人者で、夫人がその共犯者で、自分は捜査妨害をしたかもしれないという「疑惑」が持ち上がって、いまだに国民に向けて説明も抗弁もしない(それで政治家?)という「木原誠二」。そんな「木原」が一緒でないと、訪米できない、米大統領と話ができない、という無能中の無能総理なのですから。

※※キシダフミオの「長い物に巻かれる」精神。→ この人の「外交のキシダ」はトンデモナイ偽りの仮面であり、実際は、安倍元総理が自分でやりたがった「安倍外交」に、いっさい苦言をはさまず、じっと黙り続けたからこそ長く外務大臣でいられただけ……というのが実態に近く、当ブログは「ケンカの出来ない人」と申し上げましたが、それに加えて「何もせずに長い物に巻かれるメリットを味わい尽くした人」でもあったようで、今やこの欠点が、巨大な呪いとして、全ての日本人を悩ませています。

まさに二人で世界に「恥」をさらしに行ったわけで、これはウクライナ復興支援20兆円の密約が心配になったバイデン大統領に(日米韓の会談を装って)木原ともども呼びつけられただけのことで、二人そろって、もう日本には大きなマイナス(=密約のための日本人への大増税か政府資産の大放出)しかもたらさない連中です。
 
で、この史上最低以下のマイナス総理は、いま「木原」を外す気がまるで無いらしく、「俺が良ければいいんだろ」と、うそぶいているとか。
 
――― この無責任男二人のせいで、この先々、何が起こるか、国民生活の疲弊はもちろんでしょうが、さらに大胆に未来予測をさせていただくと、
<<警視庁と警察庁が東京地検によって家宅捜索される>>という、前代未聞の、日本の警察の信頼を何十年も失わせる“激震が起こる”のかも……と思えて来ました。

こうなると、いつ、チャイナの独裁政権に「日本は(も)法治国家ではない」などと侮辱されても、反論しきれない状態になって来ていて、これはひとえに、キシダフミオという無能総理ただ一人の都合でこうなっているのですから、目も当てられません。!――― ここはもう、高市早苗さんを中心にした「救国内閣」を急ぐべき事態なのでは。
 
 
【9月5日追記】
まーた「恥」をさらしに行った! アセアン、G20に出発。
国民に向けてちゃんと話の出来ない男が、なんで海外に、我が国を代表して、いけしゃあしゃあと行けるのか。怒りしか、心にわいてきません。
民主主義の「敵」、がここにいます。……………………

しかしこの右側の男、見城徹さんの暴露話(=謝罪に来るのに一人で来ずに、有本香さんに連れて来られた話)や、違法風俗で熟女ばかりを呼ぶ話、とかを聞くと、実は――
 木原は、マザコン、なのかも…
という風にも思えて来て、だから、国民に向けて釈明の記者会見などを「一人で出来ない」=自分から謝ることが(いまだに)出来ない性格!!?なのか、とも。

 
そして今、あの某野党議員が「露木警察庁長官を10月の国会で証人喚問すべし」と言い出したそうですが、それならば(※仮に木原隠し解散とかがあって、木原が「落選」したとしても、民間人登用の道を防ぐために)是が非でも、木原本人も、首を並べて証人喚問すべきでしょう。!!!
 
 
【 引き続きの追記 】 前回から木原スキャンダルをめぐる「日本語情報」を、分かりやすい図解にして、パート1から4に分けて順次、海外の皆様にご覧いただいてます。 画面クリックで拡大版にもなります。

続いて「首から心臓に向けて刺すのは、世界では定番の殺し方。なのに日本の警察は……」というパート2です。


そして今、2018年の再捜査を担った退職ベテラン刑事が、公益通報者として「安田種雄さんの死に事件性はあり、自殺の証拠は何も無かった」と記者会見すると、警察のトップはなんと、通報者の逮捕をねらい始めた!……というパート3です。



 
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「静勝軒」はどういう姿をした建物だったか ――――  
これを考え始めた途端に、濃い霧がたち込める「最大の難関」です…

さて、前回までに申し上げた「西の含雪斎」「東の泊船亭」では、何故それらが「斎」や「亭」と名付けられたか?ということに最大の力点を置いて来ましたが、「静勝軒」の場合、ちょっと事情が異なり、
<なぜ「軒」と名付けられたか>
という問いかけは、これまでは意図的に避けられて、ほとんど語られて来なかったテーマだと申せましょう。

その原因は、「軒」と名のついた歴史上の建物等を当たりますと、まるで“とりとめがない”と申しますか、例えば鉢形城の楼閣・随意軒から中華料理店の来々軒まで、いわゆる「軒号」という雅号とともに寺院や屋敷、楼閣、茶室、店、人物や一門の名称まで、あらゆるものに名付けられたため、「――軒」だからこういう建物、と言い切るのは100%不可能だと、ハナからあきらめて来たからに他なりません。

【例えば…】
建仁寺の塔頭・堆雲軒(たいうんけん)…椿寺としても知られる境内の堂宇



【例えば…】
大徳寺・孤篷庵の書院座敷・直入軒(じきにゅうけん/未公開)



【例えば…】
西洋料理店の上野精養軒(明治9年開業の支店、後に本店)

といった実情であり、一方の「静勝」の方が哲学的な由来の名であって、具体的な建物の参考にはならない以上、「静勝軒」は正攻法で考えていても、答えが無限に存在してしまうのではないでしょうか。

【ご参考】 デジタル大辞泉
「軒号」けん‐ごう〔‐ガウ〕
住居や茶室、また文人や芸人などの雅号で、下に「軒」のつくもの。「蔭涼軒」「貝原益軒」「桃中軒」など。
 
 
――― であれば、かの禅僧らの「詩文」には豊富な情報があるのだろう、と思いきや、静勝軒の建物としての情報と言えば、一見したところ、建物の「階数」や「四方の窓の名称(含雪など)と様式(華頭窓)」しか読み取れない、という厳しさがあります。

そういう中でも…

実は、この度の<太田道灌時代の江戸城「静勝軒」>をめぐる一連のブログ記事やイラストを作るうえで、結論(=建物の具体像)は当ブログとかなり異なるものの、非常に参考になったのが、「今日も日暮里富士見坂 / NIPPORI FUJIMIZAKA DAY BY DAY」様の記事「富士見と富士見坂(2)の1 太田道灌の城のコスモロジー(前半)」でありまして、ここには静勝軒の「軒」について、こんな指摘がありました。

(同記事より)

「軒」は、大夫以上の乗る車の意味から、建物の屋根の下部の「のき」または「のきのてすり」の意味に変った。さらに遅れて家の意味になる。
 
(そして静勝軒の階数について)

正宗竜統が太田道灌に請われて書いた詩には、「城上軒窓開画図」とあり、静勝軒を建物全体の名前ではなく、建物の上層部分の名称と認識していたことが分かる。
また、下記の「寄題江戸城静勝軒詩序」によれば、「静勝」は、「軒」の南面の名称である。 ただし、希世霊彦は、建物の上層部分全体を「軒」とし、名称を「静勝之軒」とする。

 
 
との指摘もあり、「静勝軒」が二階建てかそれ以上であったのは確実でしょうし、また「大夫以上の乗る車の」「てすり」との言葉からは、「その二階の高欄巡り縁が非常に印象的だった」可能性も大いにありうるのではないでしょうか。
 



【ご参考の模型】 公家の邸宅「寝殿造り」として有名な東三条殿(京都文化博物館)

さて、そうした一方で、3月のブログ記事で触れました『五百年前の東京』(1992年刊)の菊池山哉先生は、以下のようにも述べられていて、「静勝軒は寝殿造り」と主張された先生のお一人でした。

(同書より)

総合して考うるに、既に軒と云い、亭と云い、斎と云うのであるから、棟は三つであったに相違なく(中略)棟続きかとも思われる。 按うにこれは寝殿造りの形式を取り、泊船も会(含)雪も別棟の対屋(たいのや)であり、中に庭を置いて、渡り廊を以て通じて居ったものであろうか。
 
 
このように菊池先生は、詩文にある<言わば水平方向の情報=棟は三つ?>に基づいて、静勝軒は平屋建ての寝殿造りであろうと想定されたわけですが、一方でそれは、前述の<垂直方向の情報=二階建て以上?>とは完全にバッティングしている、という矛盾が我々の前に転がったままです。
 
で、この菊池先生らの「寝殿造り説」は、昨今は誌上であまり語られなくなったものの、この復元模型を見ていて、思わず!!私は椅子の背もたれにそっくり返った勢いで、倒れそうになりました。

―――― なんとなんと。西側に張り出した釣殿(つりどの)とは、当ブログが申し上げている、大小の船が停泊したような「小亭の連なり」そのまま、と申し上げざるをえず、ここにも「東の泊船亭」の先祖がいたのか!…と驚くばかりの類似です。

で、この模型は手前が南になりますので、建物ごとグルッと回転させれば…


この件のインパクトは非常に強く、私なんぞは、静勝軒は二階建て以上で、その二階などに高欄巡り縁があったのだとしても、それを銀閣や金閣などの「楼閣だけ」に限定して考えていても、良いのだろうか、との根本的な疑念をいだいてしまいました。
 

【 そこで、またもや大胆仮説… 】 → → こんな「ありえないこと」が
  太田道灌の江戸城内で起きていた、ということはないのでしょうか。
  寝殿造りの重層化!?…………

 
 
< 最大の難関「静勝軒」は正攻法では答えが無限。
  どうであれば「――軒」と名付けたくなったか?
  という逆算へ >

 
 
 
上記のごとき大胆仮説から、もう一歩進んで、いくらかでも説得力のある結論に至るために、ここで試しに、どうであれば太田道灌はそれに「――軒」と名付けたくなっただろうか?という「逆算」をしてみれば、何かの役に立つかもしれません。

そこで、私の手前勝手な印象論でまことに恐縮ですが、まず、大寺院の塔頭や通り沿いの店屋などの事例から類推いたしますと、「――軒」と名づけられたものの共通項としては…

<<一階が塀や壁で囲まれていて、構造物としては門や入口の「軒(のき)」しか目立つものがなかった、という外観になりがち>>

という形態的な特徴があるような気がするのですが、いかがでしょうか。

【参考事例1】
前出の堆雲軒(たいうんけん)の山門
→ 外からは塀や門の「軒(のき)」等しかうかがえない形に。



【参考事例2】
来々軒(新横浜ラーメン博物館に再現された浅草店の様子)
→ 看板などで飾られているものの、構造物としては、
部分的な「軒(のき)」しか店の表には出ていない。

といった感じでありまして、実は「――軒」と名付けられた建物には、わずかながらも<<共通項>>が存在するように感じるのです。 表からの外見では、門や入口の「軒(のき)」しか目立つ構造物がない、という。
 
 
そして第二の点は、「静勝軒」はそれなりの平面規模を持っていたでしょうが、もしも望楼が無かった場合、屋根が大仏殿のように空高くそびえ立ってしまうと、それは「軒(けん)」ではなくて「殿」のイメージになってしまうため、

<<ある程度の平面規模がありながらも屋根が低い、というのなら、例えば「中庭のあるロの字形の回廊建築」であれば屋根は低くなる>>

といった解決法(しぼり込み)もあるのではないでしょうか。

したがって、やはり……

ということで、これら第一・第二を踏まえた(なおかつ前述の水平・垂直の矛盾を乗り越えられる)思い切った結論を、略画イラストでご覧いただきましょう。

これが最大の難関、まぼろしの静勝「軒」?………… 今回は規模の検討が抜けてしまいましたが、ご覧の本陣宿のようなイメージは、「――軒」と呼ばれそうな建物としては、どこか、しっくり来たような感じがしているのは、私だけのことでしょうか。
 

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