天守と天守台の「ツギハギ復元」が続く『江戸始図』CG群

天守と天守台の「ツギハギ復元」が続く『江戸始図』CG群

前回記事で「徳川家康の江戸城(慶長度)天守」を話題にしたところですので、この機会に是非ともお話したいのは、もうそろそろ抜本的な収拾策(改善策)が示されてもいい頃ではないのか… という気分が高じて来たのが、『江戸始図』に基づくという復元CGの問題点です。

『江戸始図』(松江歴史館蔵『極秘諸国城図』より)の天守曲輪周辺

(※ご覧の絵図は上が南になる)

どういうことかと申しますと、歴史雑誌を売るためか、ご覧の平面的な『江戸始図』だけではインパクトが小さいと感じた雑誌編集者らが、どうしてもCG等で立体的に見せたい、との願望を押し通すなかで、『江戸始図』に書かれていない大天守の木造部分を「ツギハギ処理」してしまい、結果的に、天守台石垣の大きさの記録「二十間四方」という重要な歴史情報を 無視してしまう!!状況が続いているからです。
 
 
(『当代記』巻四/慶長12年閏4月1日条より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、
此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、
惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、
殿守台は二十間四方

 
 
【ツギハギ処理の事例1】CG制作:中村宣夫様/画像はサライ.jp からの引用

 → 大天守は初層の窓の数から見ると文献どおりの16間×18間で、
  天守台の方の記録「20間四方」は無視されている

  (※大天守の木造部分は、宮上茂隆先生の復元案を参照したらしき点に注目)

【ご参考】宮上茂隆先生の復元案
こちらは図中の低い石垣の下に、20間四方の広い天守台があることを
想定した復元案だったが、そうした点は上記CGに反映されていない…

 
 
【ツギハギ処理の事例2】CG制作:成瀬京司様

 → 津軽家伝来の絵図を慶長度天守とする三浦正幸先生の考証に基づくもの。
  その絵図の初層は16間×18間なので、こちらも「20間四方」は無視せざるをえない

【ご参考】津軽家伝来「江戸御殿守絵図 百分一ノ割」

三浦先生の説明では「その絵図によると、二階以上の各階の床を、下の階の軒桁の高さに張った旧式な構造で、現存の姫路城大天守の三階や四階の床構造と同じであった」(『一個人』大江戸入門)との理由から、これが江戸城天守の指図としては最も古いもの(→慶長度の大天守)と判断されたようです。

そうしますと、この津軽家の絵図は初層に出窓(石落し?)があるため、当然、天守台石垣はピッタリその初層(16間×18間)に合うものでなくてはならず、『当代記』の「20間四方」は無視せざるをえないのですが、そればかりでなく、絵図中の墨書の「イシタン(石段)」「御石垣高サ 振曲尺ニテ 六尺間 七間ナリ」は『当代記』は勿論(もちろん)のこと、肝心の『江戸始図』とも矛盾(むじゅん)してしまう!!…という大きな問題点を抱えることになりました。
 
 
【ツギハギ処理の事例3】絵:富永商太様/監修:千田嘉博先生

 → 本家本元のはずの千田嘉博先生の監修イラストも、上記二例と同様に、
   天守台の広さ「20間四方」は無視される結果になっている

  (※大天守の木造部分が、上記と同じ津軽家伝来の絵図!に基づいた点に注目を)

 
――― 以上のごとく『江戸始図』CG群というのは、実はどれも、かなりの「無理」「問題点」を押し通しながら描かれたものである、ということを是非ご理解いただきたいのです。

そもそも『当代記』の「殿守台は二十間四方也」という記述は、上記引用文のとおり、天守台の高さについて、まずは前年築造の切石の二間分を取り除いたうえで、野面積み等の二間を築き足して、その上にまた先程の切石を積んで… といった、家康の一代記としては “かなり細かい話” を記した文中での「二十間四方也」なのですから、この部分だけが不正確だ、とは言いにくいはずのものでしょう。

にも関わらず、天守初層の間数(16間×18間)のまま天守台を復元してしまうなら、最大で「4間」もの差を「無視」することになるわけでして、そんな「ツギハギ復元」をいつまでも放置したままでは、研究にも、学問にもならない、と感じられてならないのですが、どうでしょうか。…
 

藤堂高虎            中井正清

では、ここからは、そもそも何故こんな事態になったのか?(→天守の創建当時の状況として、どうして大天守の天守台が「20間四方」で築かれたのに、大天守の初層が「16間×18間」になったのか…)という根本の事情を推理して行きますが、私なんぞの想像では、本丸や天守曲輪の普請を指図した「藤堂高虎」と、家康好みの唐破風天守も同時に準備していた棟梁「中井正清」との、意思疎通が欠けていた、ことによる、小さなドタバタ劇があったのではないか… と思えてなりません。

と申しますのは、家康や幕府の多くの築城を指南した「藤堂高虎」自身の天守と言えば、ご承知のとおり高虎時代の宇和島城天守とか、丹波亀山城天守といった「正方形」平面の天守が有名だからです。

城戸久先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図
(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


同論文に掲載された古写真の模写

しかも、ご覧の丹波亀山城天守が建てられる前後の時期に江戸城「20間四方」天守台も “同時進行的に” 築かれたことを考えますと、一連の動きに高虎自身の考え方(→天守台の理想形?)が反映されたことは、まず間違いないのではないでしょうか。
 
 
慶長7年  藤堂高虎、今治城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる
      (※この後に「正方形」平面の今治城天守が新築される/三浦説)
慶長11年 高虎の縄張りによる江戸城本丸の天下普請が始まる
慶長12年 江戸城に「20間四方」の天守台が築かれる
慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、津城を改修する
      その一方で(解体した?)今治城天守の用材を大坂屋敷に保管
慶長14年 高虎、その天守用材を家康に献上する
慶長15年 丹波亀山城が竣工(…献上用材で「正方形」平面の天守が完成)
慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く

 
 
 
 
<前年の江戸城天守台は、藤堂高虎の「理想形」が満載だったのかもしれない>
 
 
 

2012年度リポートでもご覧いただいた家康時代の江戸城の推定


このように現在の地図上に『江戸始図』を重ねますと、大天守の黒い四角部分に「20間四方」≒40m四方が、ほぼピタリと当てはまります。

そこで、あえて【とんでもない仮説】を言わせていただくと、前年の慶長11年に一旦完成していた「切石」というのは、必ずしも、この20間四方いっぱいに築かれたのではなくて、例えば「16間四方」等の石塁として、一回り小さめに、天守台上にめぐらされた可能性もあったのではないでしょうか。




(※当図は上が南になる)

【ご参考】藤堂高虎ゆかりの今治城(正保城絵図より)


現在の今治城本丸(写真中央)と昭和55年竣工の模擬天守(本来の位置とは違う)

(※ご覧の写真はサイト「RenoStyle 不動産のブログ」様からの引用)

先に上の作図について補足いたしますと、江戸城の天守曲輪のプランを「今治城」に引きつけて考えるのは、ちょっと特殊なアプローチに見えたかもしれませんが、そもそも慶長の江戸城ほど広大で複雑な形の天守曲輪は、いったいどこから発想したのだろうか?と考えたとき、類似した原型は、家康自身の岡崎城にも、浜松城にも、二条城にも、伏見城にも、駿府城にも見当たりません。!

ですから結局、それは「家康の城」の中でもかなり特殊なプランなのだ、と考えますと、原型は藤堂高虎の城づくりの中から探すしかなく、そうして見回した場合、まさに「今治城」の本丸・二ノ丸・三ノ丸がほぼ同一の高さの石垣に囲われて、コンパクトにまとまった姿が、曲輪の配置(※三浦正幸先生が主張する層塔型天守の位置=本丸中央の地面!)を含めて、非常によく似た「原型」なのだと感じられてなりません。

で、そんな天守曲輪の南東隅に、大天守を建てるための「16間四方等の切石=高さ2間の石塁」がめぐっていたと想定しますと、それが翌年、家康自身の好みに応えるため、先行していた二条城天守に良く似た「唐破風天守」(初層16間×18間)に差し替えるべく、「切石」積みの位置や形状を変更したのだと考えれば、不可解な天守台の積み直しも、理由が見えて来るのではないでしょうか?


しかも高さ6間の石垣上に、当初は必要とされなかった「惣土井(土居)も二間あけ(げ)られ」という作業が加わったと考えれば、結果的に、天守曲輪の石垣は「合八間の石垣也」という『当代記』の文面どおりに!ちゃんと復元することが出来ます。
 
(冒頭の『当代記』引用文より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、
此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、
惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、
殿守台は二十間四方

 
 
こう考えますと、江戸城の天守曲輪の実態は、今治城を思わせる高石垣でグルッと囲われた状態であったことが、なお説得力を増して来るようですが、ちなみにこの件に関しては2013年のブログ記事で、これとは異なる仮説を申し上げていたものの、今回の仮説であれば、後の元和度天守への造替のおりに「天守台を三分の一に減じた」という不思議な記録とも、かなりの程度、合致することになります。

さて、実は【とんでもない仮説】というのは、さらにここからでして、ご覧の「16間四方」などという例示をどこから引っ張り出したか?と申せば、これこそ慶長度天守の指図だと考証した先生方もいらっしゃった中井家蔵の「江戸御城 御天守絵図」であり、これの見方をガラッと変えると、「16間四方天守」の指図の一部だと!見ることも出来なくないからです。

中井家蔵「江戸御城 御天守絵図」


伝来したのはご覧の妻側だけで、平側の天守絵図は無い。 ということは……

!! 当ブログでは過去に、この中井家蔵の天守指図は、いったん慶長度天守のために作成されたものの、家康本人に却下されて、後に元和度天守のために再利用された(=復活した)指図なのでは? などと申し上げましたが、今回は、そんな想定の延長線上(→桁行の寸法変更!)による超大胆仮説をご覧いただきました。
 

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